マアト

古代エジプト神話において、マアト（Ma'at）は単なる神格に留まらず、宇宙の根源的な秩序、真理、法、そして正義といった、あらゆる存在と事象を支配する根本原理そのものを神格化した極めて重要な女神です。その名はマァト、マート、メアートなどとも記されます。

出自と象徴

マアトは、万物の創造神であり、地上を真実の光で照らす太陽神ラーの娘であるとされています。これは、単なる血縁関係を示すのではなく、太陽が遍く公平に光を与えるように、マアトが司る真理や秩序もまた、宇宙全体に等しく及ぶ普遍的な原理であることを象徴しています。その姿は、通常、頭に大きなダチョウの羽根を挿した女性として描かれます。この羽根は「マアトの羽根」と呼ばれ、彼女自身、そして彼女が体現する真理の最も明確なシンボルです。この羽根は大気の神シュウの羽根と同じ名で呼ばれることもあり、これはマアトの原理が宇宙全体に浸透していることを示唆しているとも考えられます。

神話における役割

マアトの役割の中でも特に知られているのは、死後の世界における「心臓の計量」と呼ばれる審判での働きです。古代エジプト人の信仰では、死者の魂が永遠の生命が約束された楽園アアルへ行くためには、冥界の王オシリスによる審判を受けなければなりませんでした。

この審判の中心となる儀式が、アヌビス神によって行われる心臓の計量です。天秤の一方の皿には、死者のミイラから取り出された心臓（これは生前の行いや良心、記憶の全てが宿ると考えられていました）が置かれ、もう一方の皿には、マアトの羽根が置かれます。この時、もし心臓がマアトの羽根よりも重ければ、それは生前に多くの不正や悪行を重ねたことを意味します。そのような心臓は、アメミットと呼ばれる恐ろしい合成獣（ワニ、ライオン、カバの要素を持つとされる）によって瞬く間に食べられてしまい、その魂は二度と復活できず、永遠に消滅してしまうと信じられていました。逆に、心臓が羽根と同じか、あるいは軽い場合は、その魂はマアトの真理に沿った生涯を送ったと見なされ、審判に合格し、楽園アアルへの道を許されたのです。

また、マアトは冥界に移ったオシリスと共に働き、彼が死後の楽園アアルを統治するのを補佐したとも伝えられています。知識と知恵、書記術を司るトート神とも深く関連付けられており、ヘルモポリスの神話体系では、トートが心臓の計量を行い、その結果を記録するとされました。さらに、古代の書記官たちが正確かつ真実を記録する際に、マアトとトートの両神が彼らを守り、監視していたと考えられています。

概念としてのマアト

マアトは単に死後の審判に関わる女神であるだけでなく、この世における人間の行動規範、社会の法と秩序、そして宇宙全体の調和を維持するための原理そのものでした。王（ファラオ）の最大の責務の一つは、マアトを地上に確立し、維持することにありました。これは、正義を行い、不正（イスフェト）を排し、社会を安定させることを意味しました。マアトの原理から外れた状態は「イスフェト」と呼ばれ、無秩序、混沌、不正、悪といった負の概念を指し、マアトとは対極に位置するものでした。

マアトの原理を補佐し、死者の審判において特定の罪状を担当する42柱の神々（マアトの補佐官）の存在も知られており、いかにマアトの概念が多角的で詳細であったかがうかがえます。テーベの書記官アニの副葬品「アニのパピルス」には、死者の書の一部として、この心臓の計量やマアトへの宣誓に関する描写が含まれています。

現代に残る痕跡

古代エジプトにおけるマアトの重要性は、現代にもその痕跡を残しています。例えば、金星で最も高い火山はマアトにちなんで「マアト山」と名付けられています。また、日本の弁護士が身につける記章には、正義の象徴としてマアトの天秤が描かれているとされるなど、時代や文化を超えてその概念が引き継がれています。

このように、マアトは古代エジプト人の宇宙観、社会構造、そして個人の倫理観において、最も基礎的で重要な概念の一つであり、その神格はこれらの原理を体現する存在として深く崇拝されていました。その教えは、現代においても普遍的な真理や正義の探求に通じるものとして、多くの示唆を与えています。

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