リヒャルト・フォン・クラフト＝エビング

リヒャルト・フォン・クラフト＝エビング：性的精神病理の先駆者

リヒャルト・フォン・クラフト＝エビング男爵（Richard Freiherr von Krafft-Ebing, 1840年 8月14日 - 1902年 12月22日）は、19世紀後半に活躍したドイツおよびオーストリアの著名な医学者、精神科医です。彼は特に、性の倒錯に関する研究でその名を歴史に刻みました。

呼称について

クラフト＝エビングの正式な名前は、「リヒャルト・フライヘル・フォン・クラフトエビング」と発音されます。ここで「フライヘル（Freiherr）」はミドルネームではなく、男爵に相当する貴族の称号です。したがって、「クラフト＝エビング男爵リヒャルト」と呼ぶこともできます。

研究概要

クラフト＝エビングは、1886年に発表した『性の精神病理』（Psychopathia Sexualis）によって、性的倒錯の研究における先駆者としての地位を確立しました。この著書の中で、彼はサディズムという用語を創案し、同時代の作家であるレオポルト・フォン・ザッハー＝マゾッホの小説『毛皮を着たヴィーナス』に描かれた欲望からマゾヒズムという用語を造語しました。彼は、この著書を通じて、性的倒錯の概念を体系的に整理し、後世の精神医学に大きな影響を与えました。

生涯と業績

初期の経歴

クラフト＝エビングは、ドイツ中南部のマンハイムで生まれ、プラハで教育を受け、ハイデルベルク大学で医学を学びました。精神医学を専門とし、卒業後はいくつかの精神医療施設で勤務しましたが、その運営に疑問を感じ、教育者としての道を志すようになりました。その後、ストラスブール大学、グラーツ大学、ウィーン大学で教鞭をとり、ウィーンでは法精神医学の専門家としても活躍しました。

『性の精神病理』の出版

クラフト＝エビングの最も有名な著書は、性的倒錯に関する詳細な研究をまとめた『性の精神病理』です。彼は、一般読者の関心を引かないように、学術的な言葉遣いを多用し、章題をラテン語で記しました。本文中でも、露骨な表現や卑俗な言葉はラテン語で記述するという工夫を凝らしました。これは、当時の一般読者には一種の伏せ字のような効果をもたらしましたが、現代の読者にとってはそれほど隠蔽的なものではありません。

同性愛に関する学説

クラフト＝エビングは、同性愛者との対話や、同性愛者の権利を擁護する書籍の研究を通じて、同性愛が精神疾患や倒錯の結果ではないという結論に至りました。彼は進化論的な視点から、同性愛を胎児期の異常過程による大脳の「性的反転」と解釈しました。ただし、後年、この見解を修正し、「異常」という言葉を「変異」に変更しました。

同性愛の学説のその後

しかし、クラフト＝エビングの最終的な結論は、当時主流であったジークムント・フロイトの精神分析理論によって、長い間顧みられませんでした。フロイトは同性愛を心理的な問題と見なしたため、クラフト＝エビングの理論は埋もれてしまいました。また、クラフト＝エビングがヒステリーやマゾヒズムと神聖性を関連付けたこと、そして同性愛の邪悪さを否定したことが、カトリック教会の反感を買い、彼の理論はさらに普及が遅れた要因となりました。

しかし、後年、クラフト＝エビングの理論は、性に関する研究者たちに影響を与え、同性愛を精神疾患とはみなさないという現代的な考え方に繋がりました。また、彼の研究は、トランスジェンダーやトランスセクシュアルといった、外科手術によって修正可能な性的変異の研究へと導きました。現代精神医学では、同性愛は精神病理とは見なされておらず、これはクラフト＝エビングが最初に提唱した見解に合致しています。

『性の精神病理』に関する逸話

『性の精神病理』は、著者の生前に12版を重ねるほどの人気を博しました。初版は110ページ程度の薄い本でしたが、増補を重ねた12版では434ページの大著となりました。性的倒錯の体系化は版を重ねるごとに進み、フェティシズムは第4版から、サディズムとマゾヒズムは第6版から本格的に扱われるようになりました。第2版では、一般読者の需要に対応するために一部がラテン語で記述されました。

日本では、明治時代に出版されましたが、発禁処分となりました。1913年には『変態性慾心理』として紹介され、大正デモクラシーの開放的な風潮とあいまって、変態性欲ブームを引き起こしました。この時、「変態」という言葉が俗語として生まれたとされています。この本は、クリトリス・オルガスムスの重要性や女性の性的快楽、性犯罪者の精神状態への配慮など、性に関する問題を詳細に研究した最初の書籍の一つであるとともに、同性愛についての科学的な議論を初めて行った書籍としても重要です。クラフト＝エビングは、この著書によって称賛と非難の両方を受けました。彼は、心理学の新しい研究領域を開拓したと称賛される一方、性倒錯を正当化し、不道徳だと非難されました。

主な著書

『Psychopathia Sexualis』（性の精神病理）

初版:1886年
Bloat Booksによるリプリント版:1999年 ISBN 0-9650324-1-8
日本語訳：『色情狂編』 (1894年) 発禁処分、『変態性欲心理』 (1913年)、『変態性慾心理』 (1951年)、『変態性欲心理学』 (1956年)、『性愛心理』 (1971年)、『クラフト＝エビング変態性慾ノ心理』 (2002年)、『変態性欲心理―変態性欲と近代社会〈1〉』 (2006年)

その他の著作

『Die Melancholie: Eine klinische Studie』（メランコリー：臨床的研究）（1874年）
『Grundzüge der Kriminalpsychologie für Juristen』（法律家のための犯罪心理学の基礎特徴）（第2版：1882年）
『Die progressive allgemeine Paralyse』（一般進行性麻痺症）（1894年）
『Nervosität und neurasthenische Zustände』（神経過敏と神経衰弱状態）（1895年）

クラドック（Craddock）によって英訳された4冊の著書

『An Experimental Study in the Domain of Hypnotism』（催眠状態領域の実験的研究）（1889年）
『Psychosis Menstrualis』（月経の精神病）（1902年）
『Psychopathia Sexualis』（性的精神病理）（第12版：1903年）
『Text Book of Insanity』（狂気に関する教科書）（1905年）

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