レグナンス・イン・エクスケルシス
レグナンス・イン・エクスケルシス（羅: Regnans in Excelsis）は、1570年2月25日にローマ教皇ピウス5世が発布した重要な教皇勅書です。その内容は、イングランド女王エリザベス1世をカトリック教会から破門し、彼女の王位継承の正統性を否定するというものでした。
この勅書の正式名称は、ラテン語で書かれた本文の冒頭三語「Regnans in Excelsis」から取られており、「いと高きところにしろしめす（神）」を意味します。教皇ピウス5世は、この文書を通じてエリザベス1世とその支持者たちを異端者と断罪し、イングランドの全ての臣民に対し、女王への忠誠義務から解放されること、そしてエリザベスの命令に従う者は同様に破門されることを宣言しました。
この勅書が発布されるに至る背景には、イングランドにおける宗教対立と王位継承の問題がありました。1553年に即位したメアリー1世の下で、イングランド国教会はローマ・カトリック教会との再統合を果たし、教皇権が再び認められました。しかし、1558年にメアリー1世が死去し、妹のエリザベス1世が即位すると状況は一変します。エリザベス1世は、1559年1月に議会で国王至上法を成立させ、イングランド国教会を再びカトリック教会から切り離しました。レグナンス・イン・エクスケルシスは、このイングランド教会の分離に対する教皇庁からの対抗措置として位置づけられます。
しかし、エリザベス1世がカトリックとの訣別を宣言してから破門勅書が出されるまでには、11年もの歳月が流れていました。この長い期間は、エリザベス1世が既に統治者としての地位を確立するのに十分であり、結果として勅書が彼女の王位を揺るがす効果は限定的なものとなりました。破門が遅れた理由としては、スペイン王フェリペ2世やスコットランド女王メアリー、イングランドのノーフォーク公トマス・ハワードといった、エリザベス廃位によって自身の影響力が左右されるカトリック国の君主や有力者たちが、教皇庁に対し破門宣告を遅らせるよう圧力をかけていたことが挙げられます。また、エリザベス自身がカトリック信徒の王侯との縁談を進めたり、国内のカトリック信徒による私的な礼拝を黙認したりしていたため、1560年代には教皇庁側もイングランドが再びカトリックに戻る可能性に期待を抱いていたことも、破門が遅れた要因と考えられています。
ところが、1560年代末になるとエリザベス1世のカトリックに対する政策は次第に厳格化し、国内のカトリック信徒への差別が強まると共に、イングランドとスペインをはじめとするカトリック諸国との関係も悪化しました。1569年にイングランド北部で起こった反乱や、同年アイルランド島で始まったデズモンドの反乱でカトリック信徒が蜂起したことを受けて、教皇側はこれらの反乱を支持する形で破門宣告に踏み切る決断を下しました。
エリザベス1世に対する破門の構想自体は、トリエント公会議が閉会する直前の1563年6月、カトリック圏のルーヴァン大学神学部からの建白書によって初めて提起されました。当時の教皇ピウス4世は、1561年にイングランド教会のカトリック圏への復帰を要請して拒否された経緯もあり、この建白を受けてエリザベス1世の破門を一旦は決意します。しかし、この破門案にはハプスブルク家からの強い反対がありました。神聖ローマ皇帝フェルディナント1世は、破門が国際情勢にもたらす混乱を懸念し、不満を表明しました。スペイン領ネーデルラントの宰相であったアントワーヌ・ド・グランヴェル枢機卿も、トリエント公会議の場で、エリザベス1世を破門すれば、主君であるスペイン王フェリペ2世が進める対英宥和政策が頓挫し、イングランド国内で投獄されているカトリック司教たちの生命が危険に晒されるとして反対しました。これらの反対を受け、ピウス4世は破門の構想を撤回しました。ピウス4世は、フェリペ2世がエリザベスの縁談などを通じてイングランド教会をカトリック陣営に戻そうとする構想を支持していたのです。
エリザベス1世の破門は、ピウス4世の後を継いだ教皇ピウス5世によって実行に移されました。ピウス5世はプロテスタント勢力に対し容赦ない姿勢で臨み、先代のピウス4世に比べて国際情勢や政治への配慮よりも、対抗宗教改革の徹底を重視していました。イングランド各地でのカトリック勢力による蜂起や、スペインとイングランドの関係悪化といった状況を受け、ピウス5世は1570年2月5日にエリザベス1世を弾劾する教会裁判を開きました。裁判では、ローマに住む12人のイングランド人カトリック信徒を証人として集め、女王が犯したとされる罪状を列挙させました。その結果、同月12日にエリザベス1世に対する有罪判決が下されました。罪状には、イングランド国教会首長の権威を不法に僭称したこと、カトリック司教を罷免・投獄したこと、教会巡察権を僭称したこと、教皇権を損なう誓約を導入したこと、教皇権を否定する法律を承認したこと、異端信仰を奨励したことなどが含まれていました。そして、この有罪判決に基づき、勅書が2月25日付で正式に発布されたのです。
「レグナンス・イン・エクスケルシス」の教皇庁内での決定過程には、教会法規に違反する点が含まれていると指摘されています。特に、君主の破門宣告と王位の正統性否認が同一の勅書内で同時に行われた点が問題視されました。教会法では、君主を破門する際には事前の警告が必須であり、さらに破門された君主が1年以内に破門の撤回を申請すれば王位否認は行わない、すなわち破門と王位否認の間には少なくとも1年間の間隔を置く必要があると定められていました。エリザベス1世に対する勅書は、これらの要件を満たしていませんでした。この法的な不備を根拠に、勅書は無効であると考えるイングランドのカトリック教徒も一部に存在しました。なお、エリザベス1世は、教皇勅書によって王位の正統性を否定された歴史上最後の君主となっています。
この勅書の発布は、ヨーロッパ各国の指導者に大きな波紋を広げました。スペイン王フェリペ2世は、依然としてエリザベス1世に対する宥和的な姿勢を崩しておらず、教皇が重要な外交案件について事前の相談なく教皇庁内で一方的に決定・処理したことに強い不快感を表明しました。神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世もエリザベス1世に遺憾の意を伝え、女王の要請を受けて教皇に対し勅書の撤回、あるいはその印刷・配布の中止を求めました。しかし、ピウス5世はエリザベス1世がカトリックに復帰しない限り勅書を撤回しないと回答し、印刷・配布は予定通りに進められました。
「レグナンス・イン・エクスケルシス」の発布は、イングランド国内においてはカトリックに対する政府の姿勢をより一層硬化させる結果を招きました。イングランド政府は、スペインと教皇庁による侵略の脅威を現実のものとして恐れ、その手先と見なされたイエズス会の活動に対する締め付けを強化しました。政府の不安はすぐに現実のものとなります。エリザベス1世を僭称者と非難する勅書の印刷物が流通するようになると、スコットランド前女王メアリーとカトリック有力貴族であるノーフォーク公を結婚させ、両者をイングランド王位に据え、エリザベスを幽閉または殺害しようとする計画、いわゆるリドルフィ陰謀事件が発覚しました。
1580年、教皇グレゴリウス13世はイエズス会の請願を受け入れ、イングランド国内のカトリック信徒に対し、エリザベス1世を排除する適切な機会が到来するまでは、当面は表面上、エリザベス政府に服従することを許可するという譲歩を行いました。しかし、スペインとイングランドの関係は悪化の一途をたどり、1585年には両国間で英西戦争が勃発します。同年、イングランド政府は「イエズス会士、神学校司祭および彼らと同じく不服従の者たちに対する法」を制定し、多くのカトリック信徒がこの法律によって摘発され、処刑されました。1587年にはスコットランド前女王メアリーが処刑され、1588年にはスペインの無敵艦隊によるイングランド侵攻（アルマダの海戦）が発生します。こうしたイングランドの徹底した反カトリック政策に対抗するため、教皇シクストゥス5世はエリザベス1世に対する破門勅書を改めて発布しています。アルマダの海戦の頃までには、イングランド人のカトリック信徒の間には明確な分断が生じていました。イングランド国内に留まりエリザベス女王に忠誠を誓う者たちと、故国を脱出してエリザベス廃位を主張し、ウィリアム・アレン枢機卿やロバート・パーソンズのようにローマ教皇への忠誠心を抱く者たちとの間には、大きな隔たりが生まれていたのです。
「レグナンス・イン・エクスケルシス」がイングランド本土の内部情勢に与えた直接的な影響は比較的小さなものに留まりました。しかし、エリザベス1世が統治するもう一つの王国であるアイルランドでは、住民の圧倒的多数がカトリックであったため、この勅書の影響はより深刻でした。デズモンド伯は教皇勅書を自らの正当化の根拠として、デズモンドの反乱を再開しました。1570年の教皇勅書発布以降、アイルランドにおけるダブリンの総督府は明確にアングリカン教会を奉じる方針を打ち出しましたが、アイルランド議会においては、1613年までカトリック信徒の議員が多数を占めることが黙認されていたという複雑な状況が見られました。
この勅書の正式名称は、ラテン語で書かれた本文の冒頭三語「Regnans in Excelsis」から取られており、「いと高きところにしろしめす（神）」を意味します。教皇ピウス5世は、この文書を通じてエリザベス1世とその支持者たちを異端者と断罪し、イングランドの全ての臣民に対し、女王への忠誠義務から解放されること、そしてエリザベスの命令に従う者は同様に破門されることを宣言しました。
背景
この勅書が発布されるに至る背景には、イングランドにおける宗教対立と王位継承の問題がありました。1553年に即位したメアリー1世の下で、イングランド国教会はローマ・カトリック教会との再統合を果たし、教皇権が再び認められました。しかし、1558年にメアリー1世が死去し、妹のエリザベス1世が即位すると状況は一変します。エリザベス1世は、1559年1月に議会で国王至上法を成立させ、イングランド国教会を再びカトリック教会から切り離しました。レグナンス・イン・エクスケルシスは、このイングランド教会の分離に対する教皇庁からの対抗措置として位置づけられます。
しかし、エリザベス1世がカトリックとの訣別を宣言してから破門勅書が出されるまでには、11年もの歳月が流れていました。この長い期間は、エリザベス1世が既に統治者としての地位を確立するのに十分であり、結果として勅書が彼女の王位を揺るがす効果は限定的なものとなりました。破門が遅れた理由としては、スペイン王フェリペ2世やスコットランド女王メアリー、イングランドのノーフォーク公トマス・ハワードといった、エリザベス廃位によって自身の影響力が左右されるカトリック国の君主や有力者たちが、教皇庁に対し破門宣告を遅らせるよう圧力をかけていたことが挙げられます。また、エリザベス自身がカトリック信徒の王侯との縁談を進めたり、国内のカトリック信徒による私的な礼拝を黙認したりしていたため、1560年代には教皇庁側もイングランドが再びカトリックに戻る可能性に期待を抱いていたことも、破門が遅れた要因と考えられています。
ところが、1560年代末になるとエリザベス1世のカトリックに対する政策は次第に厳格化し、国内のカトリック信徒への差別が強まると共に、イングランドとスペインをはじめとするカトリック諸国との関係も悪化しました。1569年にイングランド北部で起こった反乱や、同年アイルランド島で始まったデズモンドの反乱でカトリック信徒が蜂起したことを受けて、教皇側はこれらの反乱を支持する形で破門宣告に踏み切る決断を下しました。
破門の決定過程と内容
エリザベス1世に対する破門の構想自体は、トリエント公会議が閉会する直前の1563年6月、カトリック圏のルーヴァン大学神学部からの建白書によって初めて提起されました。当時の教皇ピウス4世は、1561年にイングランド教会のカトリック圏への復帰を要請して拒否された経緯もあり、この建白を受けてエリザベス1世の破門を一旦は決意します。しかし、この破門案にはハプスブルク家からの強い反対がありました。神聖ローマ皇帝フェルディナント1世は、破門が国際情勢にもたらす混乱を懸念し、不満を表明しました。スペイン領ネーデルラントの宰相であったアントワーヌ・ド・グランヴェル枢機卿も、トリエント公会議の場で、エリザベス1世を破門すれば、主君であるスペイン王フェリペ2世が進める対英宥和政策が頓挫し、イングランド国内で投獄されているカトリック司教たちの生命が危険に晒されるとして反対しました。これらの反対を受け、ピウス4世は破門の構想を撤回しました。ピウス4世は、フェリペ2世がエリザベスの縁談などを通じてイングランド教会をカトリック陣営に戻そうとする構想を支持していたのです。
エリザベス1世の破門は、ピウス4世の後を継いだ教皇ピウス5世によって実行に移されました。ピウス5世はプロテスタント勢力に対し容赦ない姿勢で臨み、先代のピウス4世に比べて国際情勢や政治への配慮よりも、対抗宗教改革の徹底を重視していました。イングランド各地でのカトリック勢力による蜂起や、スペインとイングランドの関係悪化といった状況を受け、ピウス5世は1570年2月5日にエリザベス1世を弾劾する教会裁判を開きました。裁判では、ローマに住む12人のイングランド人カトリック信徒を証人として集め、女王が犯したとされる罪状を列挙させました。その結果、同月12日にエリザベス1世に対する有罪判決が下されました。罪状には、イングランド国教会首長の権威を不法に僭称したこと、カトリック司教を罷免・投獄したこと、教会巡察権を僭称したこと、教皇権を損なう誓約を導入したこと、教皇権を否定する法律を承認したこと、異端信仰を奨励したことなどが含まれていました。そして、この有罪判決に基づき、勅書が2月25日付で正式に発布されたのです。
「レグナンス・イン・エクスケルシス」の教皇庁内での決定過程には、教会法規に違反する点が含まれていると指摘されています。特に、君主の破門宣告と王位の正統性否認が同一の勅書内で同時に行われた点が問題視されました。教会法では、君主を破門する際には事前の警告が必須であり、さらに破門された君主が1年以内に破門の撤回を申請すれば王位否認は行わない、すなわち破門と王位否認の間には少なくとも1年間の間隔を置く必要があると定められていました。エリザベス1世に対する勅書は、これらの要件を満たしていませんでした。この法的な不備を根拠に、勅書は無効であると考えるイングランドのカトリック教徒も一部に存在しました。なお、エリザベス1世は、教皇勅書によって王位の正統性を否定された歴史上最後の君主となっています。
この勅書の発布は、ヨーロッパ各国の指導者に大きな波紋を広げました。スペイン王フェリペ2世は、依然としてエリザベス1世に対する宥和的な姿勢を崩しておらず、教皇が重要な外交案件について事前の相談なく教皇庁内で一方的に決定・処理したことに強い不快感を表明しました。神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世もエリザベス1世に遺憾の意を伝え、女王の要請を受けて教皇に対し勅書の撤回、あるいはその印刷・配布の中止を求めました。しかし、ピウス5世はエリザベス1世がカトリックに復帰しない限り勅書を撤回しないと回答し、印刷・配布は予定通りに進められました。
勅書発布の余波
「レグナンス・イン・エクスケルシス」の発布は、イングランド国内においてはカトリックに対する政府の姿勢をより一層硬化させる結果を招きました。イングランド政府は、スペインと教皇庁による侵略の脅威を現実のものとして恐れ、その手先と見なされたイエズス会の活動に対する締め付けを強化しました。政府の不安はすぐに現実のものとなります。エリザベス1世を僭称者と非難する勅書の印刷物が流通するようになると、スコットランド前女王メアリーとカトリック有力貴族であるノーフォーク公を結婚させ、両者をイングランド王位に据え、エリザベスを幽閉または殺害しようとする計画、いわゆるリドルフィ陰謀事件が発覚しました。
1580年、教皇グレゴリウス13世はイエズス会の請願を受け入れ、イングランド国内のカトリック信徒に対し、エリザベス1世を排除する適切な機会が到来するまでは、当面は表面上、エリザベス政府に服従することを許可するという譲歩を行いました。しかし、スペインとイングランドの関係は悪化の一途をたどり、1585年には両国間で英西戦争が勃発します。同年、イングランド政府は「イエズス会士、神学校司祭および彼らと同じく不服従の者たちに対する法」を制定し、多くのカトリック信徒がこの法律によって摘発され、処刑されました。1587年にはスコットランド前女王メアリーが処刑され、1588年にはスペインの無敵艦隊によるイングランド侵攻（アルマダの海戦）が発生します。こうしたイングランドの徹底した反カトリック政策に対抗するため、教皇シクストゥス5世はエリザベス1世に対する破門勅書を改めて発布しています。アルマダの海戦の頃までには、イングランド人のカトリック信徒の間には明確な分断が生じていました。イングランド国内に留まりエリザベス女王に忠誠を誓う者たちと、故国を脱出してエリザベス廃位を主張し、ウィリアム・アレン枢機卿やロバート・パーソンズのようにローマ教皇への忠誠心を抱く者たちとの間には、大きな隔たりが生まれていたのです。
「レグナンス・イン・エクスケルシス」がイングランド本土の内部情勢に与えた直接的な影響は比較的小さなものに留まりました。しかし、エリザベス1世が統治するもう一つの王国であるアイルランドでは、住民の圧倒的多数がカトリックであったため、この勅書の影響はより深刻でした。デズモンド伯は教皇勅書を自らの正当化の根拠として、デズモンドの反乱を再開しました。1570年の教皇勅書発布以降、アイルランドにおけるダブリンの総督府は明確にアングリカン教会を奉じる方針を打ち出しましたが、アイルランド議会においては、1613年までカトリック信徒の議員が多数を占めることが黙認されていたという複雑な状況が見られました。
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