レーソス

ギリシア神話において、レーソス（古希: Ῥῆσος, Rhēsos）は、トラーキアの地を統治した伝説的な王です。その名は長母音を省略してレソスとも表記されます。彼の生涯、特にその出自やトロイア戦争における最期については、様々な神話や伝承が伝えられています。

出自に関する諸説

レーソスの出自についてはいくつかの異なる伝承が存在します。一説には、彼はエーイオネウスの子であり、ヒッポコオーンを従弟とする関係であったとされます。

より広く知られている、あるいは悲劇作家エウリーピデースの作品『レーソス』に描かれている伝承では、彼の父はトラーキアを流れる偉大な河の神ストリューモーンであるとされます。母親は、芸術を司る女神たちであるムーサイの一柱であったと伝えられます。具体的にどのムーサであったかについては説があり、エウテルペー、カリオペー、テルプシコラー、あるいはクレイオーの名が挙げられますが、エウリーピデースの劇中では単に「ムーサ」とされています。

また別の伝承では、レーソスはトラーキアのヘブロス河（現在のマリツァ川）下流域に位置するアイニオス人の王であり、その父はヘブロス河の神であったとも語られています。妻については、狩猟を好む乙女アルガントーネーであったとする伝承も残されています。

エウリーピデースの描く誕生譚は特に印象的です。ムーサイが音楽の競技のためパンガイオン山へ向かう途中、一柱の女神がストリューモーン河を渡る際に河神ストリューモーンと結ばれてレーソスが誕生したとされます。その後、ストリューモーンによってニュムペーたちに育てられ、長じてからはトロイアの王子ヘクトールがトラーキアの諸部族を平定し、レーソスをその地の王としたといいます。レーソスが育ったストリューモーン河畔は古くから金の産地として知られており、こうして彼は黄金の豊かな土地の支配者となったのです。

トロイア戦争への参戦と悲劇的な最期

トロイア戦争が勃発すると、トロイアの指導者ヘクトールはレーソスに多大な贈り物と引き換えに援軍を要請しました。レーソス自身もトロイアを救援する意思はあったものの、彼の参戦は遅れることとなります。その理由としては、母であるムーサが、息子がトロイアへ行けば死ぬ運命にあることを知っていたため、トロイアへ赴くのを引き止めたこと、そして当時のトラーキアが北方のスキュティアからの攻撃を受けて交戦状態にあったことが挙げられています。

しかし、レーソスはスキュティアとの戦いに勝利を収めると、満を持して大軍を率いてトロイアへ向かいました。『イーリアス』の記述によれば、彼はトロイア戦争の二日目の夜遅くに戦場に到着しました。彼の登場は周囲の目を引くものでした。レーソスの身につけていた武具や彼が乗る戦車は、黄金をふんだんに使用した見事な細工が施されており、またその戦車を牽引する白馬も比類なき美しさと速さを持つ駿馬でした。

遅れて到着したレーソスは、他のトロイアとその同盟軍が密集して布陣している本陣からは少し離れた場所に自軍の陣営を構えました。この判断が、彼の運命を左右することになります。

その夜、ギリシア軍は偵察のためディオメーデースとオデュッセウスを敵陣に送り込みました。彼らは偶然、トロイア軍の偵察に向かっていたドローン（ドーローン）を捕らえ、尋問によってトロイア軍の詳細な布陣情報を引き出しました。この情報には、レーソスとその軍が本陣から離れて休息している場所も含まれていました。

ギリシアの英雄たちは、この機会を逃さずレーソスを標的としました。レーソスと彼のトラーキア兵たちは、長旅の疲れから深く眠り込んでおり、警戒を怠っていました。ディオメーデースは音を立てずに陣営に侵入し、まずレーソスの周りにいた12人のトラーキア兵を次々と刺殺しました。そして、眠っているレーソスに近づき、その命を奪いました。一方、オデュッセウスはレーソスの豪華な戦車から白馬を外し、自軍の陣へ連れ去る準備をしました。白馬は新しい主に従わなかったため、オデュッセウスは弓を鞭代わりにして白馬を駆り立て、ディオメーデースとともに無事に帰還しました。レーソスは、トロイアの戦場に到着してわずか一晩で、何ら功績を挙げることなく最期を迎えたのです。

死後の信仰と伝承

最愛の息子を殺されたレーソスの母であるムーサは、この事態に深く悲しみ、怒りました。しかし、冥府の女王ペルセポネーの介入によってレーソスの魂は回復され、ムーサはレーソスが完全に死ぬことはなく、トラーキアの洞窟に隠れ住み、英雄神としてその地で信仰されるようになるだろうと予言したと伝えられています。この伝承は、レーソスが本来、トラーキアの地における土着の神、あるいは英雄神であった可能性を示唆するものと考えられています。

後世の伝承では、レーソスの死に関して、彼の白馬がトロイア近郊を流れるスカマンドロス河の水を飲み、トロイアの牧草を食べると、難攻不落とされたトロイアが絶対に陥落しないという予言が存在したため、ギリシア側はそれを阻止する目的でレーソスを殺害し、白馬を奪ったという説が語られるようになります。

また、前述の妻アルガントーネーとの伝承によれば、レーソスはアルガントーネーに引き止められたもののトロイアへ向かい、トローアス地方を流れる河のほとりでディオメーデースに討たれたとされます。そして、以降その河はレーソスの名で呼ばれるようになったとも伝えられています。

さらに、トラーキアのロドペー山地には、レーソスは死後もその地に住み続け、馬を飼い、狩りをして暮らしているという伝承がありました。山の獣たちは自らレーソスの祭壇に犠牲として捧げられるためにやって来るといわれ、またレーソスは疫病から人々を守護する存在であったため、ロドペー山地には多くの人々が住むようになったともいわれています。

歴史的な伝承としては、古代の著述家ポリュアリーノスが記すところによると、紀元前437年、アテーナイ人がアンピポリスを建設する際に、神託に従ってトロイアからレーソスの遺骨を持ち帰り、ストリューモーン河のほとりに埋葬したという話も伝えられています。これは、レーソスが単なる神話上の人物に留まらず、ある種の信仰や歴史的な記憶と結びついていたことを示唆します。

同名の神

なお、ギリシア神話には、ここで述べたトラーキア王レーソスとは別に、トローアス地方を流れるレーソス河の河神も存在します。この河神はオーケアノスとテーテュースの子とされており、トラーキア王レーソスとは異なる存在として区別されます。

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