ワタリバッタ

特徴と定義

ワタリバッタ（英語: locust）は、バッタ科に属する昆虫のうち、普段は単独で生活しているものの、特定の条件が揃うと大量に繁殖し、形態や行動を変えて集団で移動する性質を持つものを指します。この集団で行動する状態を「群生相」と呼びます。生物学的な分類上は通常のバッタと区別されませんが、この群生相を生じる能力があるかどうかがワタリバッタを定義する重要な特徴です。「トビバッタ」とも呼ばれ、かつては「いなご」の訳語が使われることもありましたが、これは生物学的な「イナゴ」とは異なります。この群生相を獲得する能力は、進化の過程で複数の系統で独立して獲得されたと考えられており、少なくとも5亜科18属のワタリバッタが確認されています。

群生相への変化

通常のワタリバッタは個体数が少なく、単独で静かに生活しており、農作物に深刻な被害を与えることはありません。しかし、急速な植生の成長の後に乾燥が続くといった環境ストレスが生じると、バッタの脳内でセロトニンが増加し、形態や行動の劇的な変化が引き起こされます。これが「相変異」と呼ばれる現象で、密度依存型の表現型可塑性の一例です。個体数が急激に増加し、特定の密度を超えると、バッタは群生的な行動を取り始め、移動するようになります。翅を持たない幼虫は「集団（band）」を形成し、成長して翅を持つ成虫は巨大な「群れ（swarm）」となります。これらの集団や群れは広範囲を移動しながら、遭遇する植生や農作物を徹底的に食い尽くします。成虫の飛行能力は非常に高く、1日に100キロメートルも移動することがあります。

この相変異は、20世紀初頭にバッタ研究者のボリス・ウヴァロフによって初めて詳細に研究・記述されました。彼は、当時別種と考えられていた孤独相と群生相のバッタを研究する中で、これらが同じ種の異なる状態であることを発見しました。群生相への変化は、主に後脚への触覚刺激、つまり個体同士の接触頻度の増加によって引き起こされます。毎分数回以上の接触が4時間以上続くと、体色の変化や摂食・繁殖活動の活発化といった群生相の特徴が現れ始めます。

孤独相と群生相の比較

孤独相と群生相の最も顕著な違いは行動様式です。群生相の若虫は早期から互いに引き寄せ合い、数千匹にも及ぶ集団を形成します。これらの集団はあたかも一つの生命体のように協調して動き、地形に沿って主に標高の低い場所へ移動します。移動中も摂食を続け、時に数週間かけて数十キロメートルを移動します。個体間の引力には視覚や嗅覚の信号が関与していると考えられています。

形態にも違いが見られ、サバクトビバッタやトノサマバッタでは、群生相の若虫は黄色と黒の鮮やかな体色になり、孤独相より大きく成長します。成虫も大型化し、体型が変わり、性別の差が小さくなる傾向があります。また、代謝速度が上昇し、成熟・繁殖開始が早まるものの、一匹あたりの産卵数は減少します。成虫になっても個体間の引力は続き、巨大な群れとして行動します。群れから離れた個体は元の群れに戻ろうとし、群れの前方の個体が着地して採食を始めると、後方の個体はその上を飛び越えて先に着地するという独特の行動が見られます。

蝗害とその歴史

ワタリバッタの群れによる農作物への甚大な被害は「蝗害（こうがい）」と呼ばれ、先史時代から人類に深刻な影響を与えてきました。古代エジプトの墓碑や、『イーリアス』、『マハーバータ』、『聖書』、『コーラン』といった様々な古代文献に蝗害の記述が見られます。蝗害はしばしば作物を壊滅させ、飢饉や人々の大規模な移住を引き起こす原因となりました。歴史上、蝗害は疫病の流行とも関連付けられることがありましたが、これは必ずしもバッタ自体が病原体を運ぶのではなく、飢饉による栄養失調や、バッタの死骸を食べたげっ歯類を介した伝染病の拡大などが原因であると考えられています。中国でも紀元前9世紀には蝗害対策の役人が置かれていました。

近年の被害状況と対策

近年でもワタリバッタによる蝗害は続いており、国際連合食糧農業機関（FAO）によると、毎年平均で約870万ヘクタールの農地が被害を受けています。特にサバクトビバッタは、北アフリカ、中東、インド亜大陸といった広大な地域に分布し、長距離移動能力を持つため、大規模な蝗害を引き起こすことで知られています。2003年から2005年にかけては、西アフリカを中心に広範囲で大規模な蝗害が発生し、経済的損失は数十億ドルに上ったと推定されています。

近年では、ワタリバッタの産卵地調査や農法の変化により、蝗害の発生を初期段階で防除する技術が向上しています。大規模な蝗害となる前、特に若虫の集団形成段階で対処することが最も効果的です。伝統的な防除法としては、地上や空中からの殺虫剤散布が主でしたが、近年ではバッタカビを利用した生物的防除など、より環境への負荷が少ない方法も開発されています。GPS、GISツール、衛星画像といった最新技術も、観測とデータ分析による迅速な対応に役立てられています。世界各地には蝗害を監視し、早期警報を発する国際機関や各国の組織が存在しますが、貧しい国々ではリソース不足から十分な対策が取れない場合もあり、これが群れの拡大を許す原因となることもあります。

モデル生物・食用としての利用

ワタリバッタは大型で飼育・繁殖が容易であることから、生物学の研究、特に進化生物学や神経科学の分野でモデル生物として広く利用されています。学校教育における教材としても適しています。

また、食用としても歴史が長く、世界の多くの地域で食べられてきました。高タンパク質で飼育効率も良いため、未来の食料源としても注目されています。聖書にも洗礼者ヨハネがイナゴと野蜜を食べたと記されており、多くの文化で貴重な食料源とされてきました。特に中東やアフリカの一部地域では現在でも食用とされていますが、殺虫剤散布地域での捕獲には健康上のリスクが伴うため注意が必要です。トーラーやイスラム法でも食用を許可されている記述があり、古来より食文化に根ざしています。栄養価も高く、必須アミノ酸や不飽和脂肪酸、ミネラルを豊富に含んでいます。

もう一度検索