三井の大黒
『三井の大黒』（みついのだいこく）は、江戸時代に活躍したとされる伝説的な大工・左甚五郎を主人公とした長編落語です。甚五郎が登場する他の演目として、浪曲から落語化された『竹の水仙』や『ねずみ』などがあります。
物語は江戸の神田八丁堀にある大工の作業場から始まります。大工たちが忙しく働く中、見慣れない半纏姿の男が現れ、彼らの仕事ぶりを見ては辛辣な評価を下します。これに腹を立てた若い大工たちは、思わず男に手を出してしまいます。事態を収めようと間に入った棟梁の政五郎が男に名を尋ねると、男は自分を西の国から来た番匠（大工）だと名乗ります。政五郎は男のただならぬ雰囲気に何かを感じ、家に居候させることにします。
しかし、この男はどうも掴みどころがなく、質問に対する返答はどこか的外れで、普段はぼんやりとしています。さらに、殴られた衝撃で名前を忘れてしまったと言うため、若い衆からは「ポン州」あるいは「ぬうぼう」というあだ名をつけられます。当の本人は「ポン州か。ポン州は大好きだ。わしゃ、一度ポン州になりたかった」と喜び、若い衆が「ポン州！」と呼びかけると「あいよ」と応じる始末で、皆を呆れさせます。
下働きとして板を削る作業を任されたポン州ですが、彼はすぐに作業に取りかからず、なんと3時間もかけてひたすら鉋（かんな）を研ぎ続けます。ようやく削り終えた二枚の板をぴったりと重ねると、その板はまるで一枚の板になったかのように密着し、力自慢の若い大工がどんなに力を込めても全く剥がれませんでした。ポン州は平然と、「無理に剥がそうとすれば、板の間から火が出て火傷するだろう」と言い放ち、驚き騒ぐ大工たちを尻目に、そそくさと棟梁の家へ帰ってしまいます。
この出来事を知った棟梁は、大切な客人に無礼を働いたとして大工たちを厳しく叱りつけます。そしてポン州には、「機嫌が直るまでは、毎日ただ寝て過ごしてくれて構わない」と声をかけます。するとポン州は言われた通り、本当に二階に引きこもり、何もせずにゴロゴロと過ごし始めます。これには棟梁の女房も堪忍袋の緒が切れ、「なんとかしてくださいよ、『晩飯のおかずは何だ、今日もシャケか』なんて言うんですよ。腹が立って仕方がない。もう追い出してしまいましょうよ」と不満をぶちまけます。
年末が近づき、江戸の大工たちは歳の市に向けて端材で日用品などを作り、小遣い稼ぎをする習慣がありました。棟梁は何もせず寝てばかりいるポン州に、「西の大工は彫り物が得意だと聞く。何か一つ、飾りか置物でも作ってみたらどうだ」と勧めます。意外にもポン州は素直に応じ、それから数日間、二階にこもりきりで食事も睡眠も取らず、一心不乱に何かに打ち込みます。数日後、ポン州は小僧に手紙を託してどこかへ使いに出させ、「湯に行ってくる」と言い残し家を出て行きます。
好奇心に駆られた棟梁が、こっそりポン州の部屋に入ってみると、そこには一体の大黒様の像が置かれていました。大黒様は実に穏やかで温かい笑みを浮かべており、部屋に差し込む陽光を受けると、まるで生きているかのように輝いて見えました。
ちょうどその時、駿河町にある三井の本店から使いの者がやって来て、「こちらに飛騨高山からお越しの棟梁、左甚五郎先生は御在宅でしょうか」と尋ねます。これを聞いた棟梁は、すべてを悟ります。そこへ入れ替わるようにポン州が帰ってきます。棟梁が改めて問い質すと、ポン州は「いかにも」と答え、自分が左甚五郎であることを明かします。実は、阿波の名工である雲慶が三井のために恵比寿像を彫り上げたため、その対となる大黒像を彫るよう三井から招かれて江戸に来たのであり、たまたま棟梁の家に転がり込んだのだというわけでした。甚五郎は世話になった礼として、三井からの礼金を棟梁に渡します。
三井の使いは、「阿波の雲慶先生には、恵比寿様へ向けて『商いは濡れ手であわのひとつかみ』という上の句をいただきました。つきましては、先生の大黒様にも対となる下の句をつけていただけませんでしょうか」と願います。「濡れ手で粟（あわ）」とは、苦労せずに多くの利益を得ることわざですが、ここでは「粟（あわ）」と「阿波（あわ）」、そして「一つかみ」を「一つ神（恵比寿）」にかけた言葉遊びになっています。甚五郎は「どれどれ、面白い上の句だ。面白くはないが一つ下の句をつけてみよう」と、すらすらと短冊に書き記します。それが「守らせたまえ二つかみたち」でした。この句も、上の句と同じように「二つかみ」と「二つ神（恵比寿と大黒）」をかけており、さらなる商売繁盛を祈願する言葉となっています。
この演目は、すべてを演じ切ると1時間近くを要する大作であり、演者には高度な技量が要求されます。飄々として掴みどころのない左甚五郎のキャラクターと、威勢の良い江戸っ子大工たちの歯切れ良い言動を見事に演じ分け、なおかつ長時間の高座を務めきる強靭な体力も不可欠とされます。
特に、3代目桂三木助は1960年（昭和35年）11月、東横落語会においてこの『三井の大黒』を演じました。当時すでに全身をがんに侵されていた三木助は、左足が腫れ上がって正座ができなかったため、足を投げ出したまま高座に上がり、その足を前に置いた見台で隠しながら演じました。これが三木助にとって、文字通り最後の高座となったのです。この時の貴重な音源は、後に1981年（昭和57年）にCBSソニーからレコード化され、多くの落語ファンにその壮絶な芸が伝えられています。
あらすじ
物語は江戸の神田八丁堀にある大工の作業場から始まります。大工たちが忙しく働く中、見慣れない半纏姿の男が現れ、彼らの仕事ぶりを見ては辛辣な評価を下します。これに腹を立てた若い大工たちは、思わず男に手を出してしまいます。事態を収めようと間に入った棟梁の政五郎が男に名を尋ねると、男は自分を西の国から来た番匠（大工）だと名乗ります。政五郎は男のただならぬ雰囲気に何かを感じ、家に居候させることにします。
しかし、この男はどうも掴みどころがなく、質問に対する返答はどこか的外れで、普段はぼんやりとしています。さらに、殴られた衝撃で名前を忘れてしまったと言うため、若い衆からは「ポン州」あるいは「ぬうぼう」というあだ名をつけられます。当の本人は「ポン州か。ポン州は大好きだ。わしゃ、一度ポン州になりたかった」と喜び、若い衆が「ポン州！」と呼びかけると「あいよ」と応じる始末で、皆を呆れさせます。
下働きとして板を削る作業を任されたポン州ですが、彼はすぐに作業に取りかからず、なんと3時間もかけてひたすら鉋（かんな）を研ぎ続けます。ようやく削り終えた二枚の板をぴったりと重ねると、その板はまるで一枚の板になったかのように密着し、力自慢の若い大工がどんなに力を込めても全く剥がれませんでした。ポン州は平然と、「無理に剥がそうとすれば、板の間から火が出て火傷するだろう」と言い放ち、驚き騒ぐ大工たちを尻目に、そそくさと棟梁の家へ帰ってしまいます。
この出来事を知った棟梁は、大切な客人に無礼を働いたとして大工たちを厳しく叱りつけます。そしてポン州には、「機嫌が直るまでは、毎日ただ寝て過ごしてくれて構わない」と声をかけます。するとポン州は言われた通り、本当に二階に引きこもり、何もせずにゴロゴロと過ごし始めます。これには棟梁の女房も堪忍袋の緒が切れ、「なんとかしてくださいよ、『晩飯のおかずは何だ、今日もシャケか』なんて言うんですよ。腹が立って仕方がない。もう追い出してしまいましょうよ」と不満をぶちまけます。
年末が近づき、江戸の大工たちは歳の市に向けて端材で日用品などを作り、小遣い稼ぎをする習慣がありました。棟梁は何もせず寝てばかりいるポン州に、「西の大工は彫り物が得意だと聞く。何か一つ、飾りか置物でも作ってみたらどうだ」と勧めます。意外にもポン州は素直に応じ、それから数日間、二階にこもりきりで食事も睡眠も取らず、一心不乱に何かに打ち込みます。数日後、ポン州は小僧に手紙を託してどこかへ使いに出させ、「湯に行ってくる」と言い残し家を出て行きます。
好奇心に駆られた棟梁が、こっそりポン州の部屋に入ってみると、そこには一体の大黒様の像が置かれていました。大黒様は実に穏やかで温かい笑みを浮かべており、部屋に差し込む陽光を受けると、まるで生きているかのように輝いて見えました。
ちょうどその時、駿河町にある三井の本店から使いの者がやって来て、「こちらに飛騨高山からお越しの棟梁、左甚五郎先生は御在宅でしょうか」と尋ねます。これを聞いた棟梁は、すべてを悟ります。そこへ入れ替わるようにポン州が帰ってきます。棟梁が改めて問い質すと、ポン州は「いかにも」と答え、自分が左甚五郎であることを明かします。実は、阿波の名工である雲慶が三井のために恵比寿像を彫り上げたため、その対となる大黒像を彫るよう三井から招かれて江戸に来たのであり、たまたま棟梁の家に転がり込んだのだというわけでした。甚五郎は世話になった礼として、三井からの礼金を棟梁に渡します。
三井の使いは、「阿波の雲慶先生には、恵比寿様へ向けて『商いは濡れ手であわのひとつかみ』という上の句をいただきました。つきましては、先生の大黒様にも対となる下の句をつけていただけませんでしょうか」と願います。「濡れ手で粟（あわ）」とは、苦労せずに多くの利益を得ることわざですが、ここでは「粟（あわ）」と「阿波（あわ）」、そして「一つかみ」を「一つ神（恵比寿）」にかけた言葉遊びになっています。甚五郎は「どれどれ、面白い上の句だ。面白くはないが一つ下の句をつけてみよう」と、すらすらと短冊に書き記します。それが「守らせたまえ二つかみたち」でした。この句も、上の句と同じように「二つかみ」と「二つ神（恵比寿と大黒）」をかけており、さらなる商売繁盛を祈願する言葉となっています。
解説
この演目は、すべてを演じ切ると1時間近くを要する大作であり、演者には高度な技量が要求されます。飄々として掴みどころのない左甚五郎のキャラクターと、威勢の良い江戸っ子大工たちの歯切れ良い言動を見事に演じ分け、なおかつ長時間の高座を務めきる強靭な体力も不可欠とされます。
特に、3代目桂三木助は1960年（昭和35年）11月、東横落語会においてこの『三井の大黒』を演じました。当時すでに全身をがんに侵されていた三木助は、左足が腫れ上がって正座ができなかったため、足を投げ出したまま高座に上がり、その足を前に置いた見台で隠しながら演じました。これが三木助にとって、文字通り最後の高座となったのです。この時の貴重な音源は、後に1981年（昭和57年）にCBSソニーからレコード化され、多くの落語ファンにその壮絶な芸が伝えられています。
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