下エジプト

下エジプト

下エジプト（英: Lower Egypt）は、今日のカイロ南部から北は地中海沿岸まで広がる、ナイル川の広大なデルタ地帯を指すエジプトの歴史的な地域区分です。ナイル川が多数の支流に分かれて流れ込み、豊かな三角州を形成するこの地は、古代エジプト文明が栄えた時代を通じて、その南部にあるナイル河谷の上エジプトと並び称される重要な地域でした。

古代の分立と統一

エジプトに初期の文明が芽生え始めた紀元前4千年紀半ば頃には、既に下エジプトと上エジプトそれぞれに独立した政治勢力、すなわち王朝が形成されていたと考えられています。両地域は独自の文化や象徴を持ち、時には対立し、覇権を争うことも少なくありませんでした。

紀元前32世紀末頃、上エジプトを支配していたナルメル王は、軍事行動によって下エジプトの諸都市、特にブトなどを制圧しました。これにより、エジプト史上初めて南北が統一され、エジプト第1王朝が樹立されます。この出来事は、その後の約3000年に及ぶ古代エジプトの統一国家の歴史の始まりを告げる画期的なものでした。

統一王朝の首都は、上下エジプトのちょうど境界線付近に位置するメンフィスに置かれました。この立地は、両地域を効率的に統治するための戦略的な選択であったと考えられます。メンフィスは、古王国時代を中心にエジプトの中心都市として繁栄を極めました。

下エジプトの象徴

下エジプトには、その地理や文化を反映した独自の象徴がありました。地域の守護女神は、コブラの姿で表されるウアジェトでした。また、王権を示す冠として、下エジプトの王は赤色の冠（デシェレト）を着用しました。後にエジプトが統一されると、この赤い冠は上エジプトの白い冠（ヘジェト）と組み合わされ、統一王権を象徴する二重冠（プスケント）となりました。さらに、ナイル川デルタの湿地帯に豊富に自生するパピルスも、下エジプトを代表する植物として重要な象徴とされました。

中間期の動向

古代エジプトの歴史において、中央集権体制が弱まり南北に分裂した時代を「中間期」と呼びます。第1中間期には、下エジプトはメンフィスを拠点とする王朝の下にまとまっていましたが、やがて上エジプト南部のテーベ（現ルクソール）で勢力を拡大した王朝との争いに敗れ、その支配下に入りました。

続く第2中間期には、アジア系民族であるヒクソスが下エジプトに侵入し、その地を支配しました。ヒクソスはデルタ東部に築いた都市アヴァリスを都として、エジプト第15王朝を樹立しました。しかし、彼らの支配も長くは続かず、上エジプトのテーベを拠点とするエジプト第17王朝が南北エジプトの解放運動を推進し、ヒクソスを追放することに成功しました。

その後の歴史

新王国時代以降も、下エジプトはエジプトの重要な地域であり続けました。ナイル川デルタには、古くからの都市に加え、サイスや、後にプトレマイオス朝エジプトの都となり地中海世界との交流拠点となったアレキサンドリアなど、新たな都市が建設され発展しました。

特に、紀元前7世紀に興ったエジプト第26王朝は、下エジプトのサイスを都としました。この王朝は、かつて自身が支配下に置かれた上エジプトをも再び制圧し、約400年ぶりにエジプト全土の統一を実現しました。その後も下エジプトは、エジプトの歴史の主要な舞台であり続けました。

もう一度検索