仁寿山黌

仁寿山黌（じんじゅさんこう／じんじゅざんこう）

江戸時代後期、播磨国（現在の兵庫県姫路市）に存在した私塾・学問所、それが仁寿山黌です。この学問所は、特に姫路藩家老として藩政改革を推進した河合道臣（かわい みちおみ）、通称「寸翁（すんのう）」が設立し、後進の指導にあたったことで知られています。現在の姫路市奥山地区にあたるこの地で、多くの若者が集い、学問を修めました。

設立の背景

仁寿山黌の設立は文政4年（1821年）に遡ります。当時の姫路藩主、酒井忠実（さかい ただざね）は、長年にわたる藩の深刻な財政難を見事に立て直した功労者である家老、河合道臣の功績を高く評価しました。その報償として、藩主は河合道臣に阿保村一帯にあった広大な山林、幡下山（はたしたやま）を与えました。この土地は、東阿保村、兼田村、北原村、奥山村にまたがる広い範囲に及んでいました。

河合道臣はこの拝領地を「仁寿山」と改称し、その山の麓にあたる奥山村の地に、自らの名を冠した私塾を開きました。これが仁寿山黌の誕生です。道臣は単なる財政の専門家ではなく、人材育成や教育にも深い熱意を持っていたことが伺えます。彼は、この私塾を通じて、次代の藩政や社会を担う若者たちの育成に力を注ごうとしたのです。

教育内容と集った人々

仁寿山黌では、国学、漢学、医学といった、当時の幅広い分野の学問が教授されました。指導にあたった講師陣は非常に高名な学者たちでした。日本史の分野では頼山陽（らい さんよう）が、儒学では猪飼敬所（いかい けいしょ）が、そして漢詩人として知られる森田節斎（もりた せっさい）などが教鞭を執りました。このような一流の師から学ぶ機会を得た塾生たちは、多様で高度な知識を吸収することができました。

特に注目すべきは、仁寿山黌が幕末が近づくにつれて、尊皇攘夷思想を奉じる若者を多く輩出したことです。これは、当時の社会情勢と、学問所で教えられていた思想が密接に結びついていたことを示しています。仁寿山黌は、単に知識を習得する場としてだけでなく、時代の変革を感じ取り、将来を憂える若者たちが集い、思想を磨き、志を共にする場ともなったのです。

閉校への道のり

河合道臣によって創設され、隆盛を極めつつあった仁寿山黌でしたが、その運命は道臣の死によって大きく変わります。天保12年（1841年）に河合道臣が死去すると、それまで彼によって抑えられていた私塾の運営や教育方針に対する批判的な意見が噴出しました。

翌天保13年（1842年）、当時の姫路藩主であった酒井忠学（さかい ただのり）の治世において、仁寿山黌は医学寮を除いて閉校が決定されました。そして、その役割は藩校である好古堂（こうこどう）に吸収されることとなりました。一時的に存続を許された医学寮も、明治維新後の明治3年（1872年）には閉鎖され、これにより仁寿山黌はその短いながらも影響力のあった歴史に完全に幕を下ろしました。

今に残る痕跡と記憶

仁寿山黌が存在した現在の姫路市奥山地区には、当時を偲ばせる遺構がわずかに残されています。かつて敷地を囲んでいたであろう土塀の一部が今もひっそりと立ち、往時の面影を伝えています。また、北原地区と兼田地区の境には、仁寿山黌を創設した河合道臣を祀る河合家墓所が現存しており、訪れる人々にその功績を思い起こさせます。

仁寿山黌の名前は、地域の人々の記憶の中にも受け継がれています。かつて姫路市内の尋常小学校で歌われていた『姫路市郷土唱歌』にはその名が登場し、地域の歴史の一部として歌われていました。そして、現在も奥山、北原、兼田地区を校区とする姫路市立糸引小学校の校歌には、「仁寿の教え今もなお」という歌詞が含まれており、地域の教育の伝統として、仁寿山黌の精神が今も語り継がれていることを示しています。

主な出身者

仁寿山黌からは、幕末から明治にかけて活躍したり、後世に名を残したりした人物も輩出されています。民族学者として著名な柳田國男（やなぎた くにお）の父である松岡操（まつおか みさお）も、仁寿山黌で学んだ一人です。彼は在籍当時、「田島賢次」という名を使用していました。また、幕末から明治にかけて儒学者や教育者として活動した姫路藩士の亀山雲平（かめやま うんぺい）、姫路藩の西洋式帆船「速鳥丸（はやとりまる）」の建造に尽力した姫路藩士の秋元安民（あきもと やすたみ）なども、この仁寿山黌で学んだことが知られています。

仁寿山黌は、河合道臣の教育への情熱が生んだ学問所であり、わずか約20年という短い期間ながらも、多様な学問と進取の気風を教授し、多くの有為な人材を世に送り出しました。その遺構や地域の歌に残る名前は、江戸時代後期の地方における教育熱や思想的な潮流を知る上で、貴重な手がかりとなっています。

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