伊勢音頭

伊勢音頭

伊勢音頭とは、江戸時代の伊勢国（現在の三重県）を起源とし、全国に広まった日本の代表的な民謡の一つです。ただし、この「伊勢音頭」という名称は、時代や地域によって異なる二つの系統の唄や音曲を指していました。一つは、伊勢参りの賑わいを背景に栄えた古市（現在の伊勢市）の遊郭で、遊女たちが客をもてなすために用いた音曲や踊り。もう一つは、主に伊勢街道を行き交う旅人たちの間で唄われ、現在民謡として広く知られるようになったものです。

古市の伊勢音頭

古市における伊勢音頭の始まりは、享保年間（1716年〜1736年）に遡ります。伊勢の人物たちが協力し、盆踊りを基に「川崎音頭」として創作しました。享保17年（1732年）、古市の遊郭が名古屋へ出店した際、この「川崎音頭」を座敷の客寄せに活用し、「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」といった歌詞で唄われました。この名古屋の遊郭は短期間で停止されましたが、名古屋での評判を受けて古市でもこの唄を出し始め、その名は一層広まりました。当時の古市は、信仰だけでなく観光も兼ねて伊勢を訪れる多くの旅人で賑わっており、これらの旅人たちが古市の伊勢音頭を全国各地に持ち帰ったことで、その名声は確固たるものとなったのです。

寛政期（1789年〜1801年）の地誌や歌舞伎にも古市の伊勢音頭は登場します。『伊勢参宮名所図会』には遊女たちが三味線に合わせて踊る様子が描かれ、歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』にも座敷踊りとして取り入れられるなど、遊郭での唄と踊りとして広く知られていました。

しかし、享保期に生まれた伊勢音頭は、数十年を経るうちに変化していきました。享和2年（1802年）、伊勢を旅した曲亭馬琴は『羇旅漫録』の中で、古市の遊郭で聞いた曲が「大坂或は江戸のめりやす、潮来ぶし」のようなもので、本来の伊勢音頭を正しく唄える遊女が少なくなっていると記しています。この頃には、本来の曲は一部の好事家によって伝えられている状態だったようです。古市の伊勢音頭の歌詞を集めた『二見真砂』には、一中節や義太夫節など当時流行していた様々な音曲の節が取り入れられており、時代が進むにつれて本来の曲に代わって、様々な要素を取り込んだ唄が「伊勢音頭」として古市で唄われ、踊られていたと考えられます。

古市の遊女たちによる伊勢音頭の踊りは、コの字型に設けた細長い舞台に多くの遊女が並び、一斉に踊る「総踊り」が特徴でした（別名「亀の子踊り」）。特に規模の大きかった備前屋では、大広間で伊勢音頭を踊らせ、遊女たちが踊る際に舞台がせり上がる仕掛けも設けていました。この舞台演出は備前屋が最初といわれています。こうした伊勢音頭の総踊りは、古市の多くの妓楼で盛んに行われ、少なくとも昭和初期までは備前屋と杉本屋に残っていたようです。作家の志賀直哉も、小説『暗夜行路』後篇でこの総踊りを取り上げています。京都祇園の「都をどり」の振付は、この古市の伊勢音頭を参考にしたとも伝えられています。

伊勢街道の音頭（民謡伊勢音頭）

古市の遊郭で唄われた音曲としての伊勢音頭とは別に、伊勢街道を行き交う人々によって唄われた別の系統の「伊勢音頭」も存在しました。幕末の文献には、「伊勢街道の音頭」あるいは「小唄」として、現在民謡として知られる伊勢音頭の源流と見られる唄の記述があります。「大坂出てから早玉造、笠を買なら深江が名所…」や、「伊勢へ七度熊野へ三度」、「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」といった歌詞が挙げられています。これらの唄には、「ヤアトコセーヨウイヤナ…」といった独特の合いの手が入り、現在の民謡「伊勢音頭」にも同様の合いの手が使われています。

この「伊勢街道の音頭」の起源は定かではありませんが、文政5年（1822年）の俗謡集に「勢州川崎節」として類似の唄が収められており、それ以前に存在していたことが分かります。

「伊勢街道の音頭」は、大道芸として人気を集めた願人坊主の「住吉踊り」にも取り入れられました。幕末の文献には、住吉踊りの唄に伊勢参宮道中の章句を用いることが記されており、江戸の芝居の記録からも、文政・天保期には住吉踊りでこの唄が使われていたことが確認できます。

伊勢音頭は「荷物にならない伊勢土産」とも称され、伊勢参りの旅人によって全国各地に伝えられ、その土地に合わせて変化しながら普及しました。主に祝い歌として、祭りなどの伝統行事や、人生の節目となる通過儀礼の場で唄われることが多いのが特徴です。なお、伊勢にはこれとは別に、「明日はお立ちか、お名残惜しや…」で始まる「伊勢道中唄」と呼ばれる唄もあり、歌詞や形式が異なります。伊勢音頭はその多様な展開と普及により、日本各地に様々な派生歌を生み出しました。

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