光文事件

大正天皇が1926年（大正15年）12月25日に崩御された際、次に始まる新しい時代の名称、すなわち「元号」を巡って発生したのが「光文事件」と呼ばれる歴史的な誤報事件です。

この日、午前1時過ぎに天皇が47歳で崩御されると、当時、情報伝達の要であった新聞各社は、次期元号に関する情報を掴もうと熾烈な競争を繰り広げました。その中で、東京日日新聞（現在の毎日新聞）は、天皇崩御直後に発行した号外で「元號は『光文』」と速報。さらに同日早朝の朝刊最終版では、「元號制定 『光文』と決定―樞府會議で」と断定的な見出しで報じました。報道によれば、「大治」「弘文」といった他の候補の中から「光文」が選ばれた、とされていました。

しかし、事実は異なりました。宮内省が同日午前11時頃に正式に発表した新元号は「昭和」であったため、東京日日新聞の報道は重大な誤報となってしまったのです。この事態を受け、社長が辞意を表明するまでに至りましたが、最終的には編集局主幹が辞任することで責任が取られ、事態の収拾が図られました。

誤報したのは東京日日新聞だけではありませんでした。報知新聞や都新聞も号外で「光文」を掲げ、読売新聞や萬朝報も朝刊でこれに追随しました。一方で、時事新報は同日午前10時頃には正確な「昭和に決した」旨の号外を発行し、スクープに成功しました。また、大阪毎日新聞は、東京本社からの「光文」決定との通信を受け取りながらも、情報に不確かな点があるとして直ちに発表せず、結果的に「昭和」を報じることができたため、重大な失態を免れることとなりました。

なぜ「光文」という誤った情報が流れたのでしょうか。一つの説として、当時の宮内省が、元号に関する情報が報道機関に漏洩したことに激怒し、一度内定していたと噂されていた「光文」から「昭和」へと急遽変更したという見方があります。この説は、ジャーナリストの猪瀬直樹氏の著書『天皇の影法師』で触れられており、元宮内省職員とされる人物が、自身が作成した「光文」案が漏洩によって変更されたと証言したとされています。

当時の元号案の選定プロセスを紐解くと、宮内省と内閣がそれぞれ案を作成していました。「光文」は宮内省案には存在せず、内閣が提示した案の一つでした。宮内省案は最終的に「昭和」「元化」「神化」の三つに絞られ、当時の枢密院議長の日記からは、1926年12月8日時点ですでに「昭和」を最終候補とし、「元化」「同和」を参考とする案が決定していたことが伺えます。これらの記録から、「光文」は正式な候補から外れた内閣案の一部が、選定作業の過程で何らかの形で漏洩し、それを記者が十分な検証を行わないまま速報として報じてしまった可能性が高いと考えられています。過熱した報道競争が、確認の不徹底につながったと言えるでしょう。

この「光文事件」は、63年後の昭和から平成への改元時にも影響を与えました。新元号報道を巡っては再びマスコミの競争が激化し、候補となる学者宅に記者が張り付くといった事態が発生しました。特に、東京日日新聞の後身である毎日新聞は、光文事件での雪辱を果たすべく、他社に先駆けて新元号を報じることに注力しました。その結果、1989年（昭和64年）1月7日の夕刊において、全国紙で唯一「平成」の文字を他社より約35分早く掲載することに成功し、同社の社史でも「見事スクープ、63年ぶり雪辱果たす」と記され、長年の汚名を返上した出来事として語り継がれています。

光文事件は、国家の重要な情報を巡る報道機関のあり方や、情報漏洩、そして過熱する報道競争の危険性を示す事例として、日本のジャーナリズム史において重要な教訓を残しました。

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