八王子市歯科医師フッ化水素酸誤塗布事故

八王子市歯科医師フッ化水素酸誤塗布事故

1982年（昭和57年）4月20日、東京都八王子市内の歯科医院で発生した、痛ましい医療事故です。虫歯予防のために来院した3歳の女児が、歯科医師による誤った薬剤の塗布により、命を落としました。

概要

事故の原因は、歯科医師が虫歯予防に使用するフッ化ナトリウム (NaF) と、歯科技工に用いる毒物のフッ化水素酸 (HF) を誤って女児の歯に塗布したことにあります。本来、虫歯予防のために使用されるのはフッ化ナトリウムですが、誤って毒性の強いフッ化水素酸が使用されてしまったのです。

この事故後、歯科医師は業務上過失致死罪で在宅起訴され、1983年（昭和58年）2月24日に禁錮1年6ヶ月、執行猶予4年の有罪判決を受けました。また、歯科医師とその妻は、事故の責任を全面的に認め、遺族に対して慰謝料を支払うことで示談が成立しています。

フッ化水素酸は、工業分野では重要な物質ですが、人体にとっては非常に有害です。フッ化物イオンが体内のカルシウムやマグネシウムと結合することで、全身に影響を及ぼす可能性があります。

事故の経緯

1982年3月19日、歯科医院の院長である歯科医師Xは、助手の妻Yにフッ化ナトリウムの注文を依頼しました。Yは薬学の知識を持っていなかったため、「フッ素」と略して注文書に記入しました。しかし、注文を受けた歯科材料会社は、「フッ素」を毒物であるフッ化水素酸と解釈し、歯科医院に配達してしまいました。

歯科医師業界では、「フッ素」は一般的にフッ化ナトリウムを指しますが、医薬品業界ではフッ化水素酸を指すことがあります。この認識のずれが、事故の遠因となりました。

フッ化水素酸の納品時には、毒物及び劇物取締法に基づき受領書への押印が必要でしたが、Yはその違いに気づかず、受領書に押印して受け取ってしまいました。その後、Xも瓶の大きさやラベルが異なることに気づきましたが、新しい業者からの納品であるため、違うメーカーのフッ化ナトリウムだと誤解し、使い慣れた瓶に移し替えてしまいました。

4月20日、女児が母親とともに歯科医院を訪れました。歯科医師Xは、フッ化水素酸をフッ化ナトリウムと思い込んだまま、脱脂綿に染み込ませて女児の歯に塗布しました。直後、女児は口から白煙のようなものと血色の唾液を出し、「からい」と訴えて激しく抵抗しました。しかし、Xはフッ化ナトリウムによるものにしては異常な反応だと感じながらも、フッ化水素酸の塗布を続けました。

女児は激しい痛みを訴え、診察台から転げ落ちるほど暴れました。母親が抱き上げると、口の周りは出血を伴い、ただれていました。Xは、初めて見る反応だったため特殊体質によるものだと判断し、強心剤を注射し、救急車を呼びました。女児は救急搬送されましたが、同日午後6時過ぎに死亡しました。

救急搬送後、Yは女児の異常な反応に薬品の間違いに気づき、証拠隠滅のために容器を焼却処分しました。しかし、警察の捜査により、診療室内の薬品や焼却炉の灰が押収されました。

その後

司法解剖の結果、女児の死因は急性毒物中毒と判明しました。Xは業務上過失致死罪で起訴され、1983年2月24日に有罪判決を受けました。また、遺族との間で示談が成立し、慰謝料が支払われました。

この事故は、医療現場における薬剤の管理体制の重要性を改めて認識させるものとなりました。

裁判例

東京地方裁判所八王子支部判決、昭和58年2月24日、昭和57年（わ）第1222号、『業務上過失致死被告事件』、判例タイムズ678号60頁。

参考文献

飯田英男「刑事医療過誤訴訟 ――その後の動向―― （昭和五一年一〇月～昭和六二年一〇月 全一六件）」『判例タイムズ』第678号、判例タイムズ社、1988年12月15日、41-72頁、NAID 40003208071。

関連項目

フッ化物療法
フッ化水素酸
* フッ化ナトリウム

もう一度検索