切り裂きジャックと疑われた者たち

切り裂きジャック事件の容疑者たち

1888年、ロンドンのイーストエンドで発生した連続殺人事件、通称「切り裂きジャック事件」。犯人は未だ特定されておらず、多くの人々が容疑者として名前が挙がってきました。本稿では、警察の捜査記録や当時の報道、そして現代の研究に基づき、その容疑者たちについて詳細に解説します。

当時の警察による捜査

ロンドン警視庁は、1888年から1891年にかけて発生した11件の殺人事件を「ホワイトチャペル殺人事件」として捜査しました。このうち、1888年8月から11月にかけて発生した5件の殺人事件（メアリー・アン・ニコルズ、アニー・チャップマン、エリザベス・ストライド、キャサリン・エドウッズ、メアリー・ジェーン・ケリー）は、その手口の類似性から同一犯によるものとされ、犯人は「切り裂きジャック」と呼ばれるようになりました。これらの5件は「カノニカル・ファイブ」として区別されます。一方で、他の6件の殺人事件も切り裂きジャックとの関連性が指摘されています。

警察は、犯人が医者や肉屋の技術を持つ者ではないかと推測しましたが、証拠は見つかりませんでした。地元住民や肉屋への聞き込み、2,000人以上の事情聴取、300人以上の捜査、80人の拘留などが行われましたが、正式に起訴された者は一人もいませんでした。

捜査主任のメルヴィル・マクノートン卿は、警察が有力視していた容疑者として、ドルイット、コスミンスキー、オスログの3人の名前を挙げています。

モンタギュー・ジョン・ドルイット

モンタギュー・ジョン・ドルイットは弁護士であり、学校の副校長も務めていました。1888年に学校を解雇され、直後に入水自殺しました。彼の死亡時期が最後のカノニカル・ファイブ（ケリー殺し）の直後であったため、マクノートンは彼を容疑者として挙げました。しかし、ドルイットは最初のカノニカル・ファイブの際にクリケットをしていたという証拠があり、また居住地もホワイトチャペルから離れていたため、有力な容疑者とは見なされませんでした。

ジョージ・チャップマン（セヴェルィン・クウォソフスキ）

ジョージ・チャップマンはポーランド出身の殺人者で、チャップマンという名前は一時的に名乗っていたものでした。彼は3人の妻を毒殺したことで「市区の毒殺魔」として知られています。切り裂きジャック事件当時は、ホワイトチャペルで床屋を営んでいました。彼の殺害手口は毒殺であり、連続殺人犯が犯行方法を大きく変えることは稀であるため、切り裂きジャックである可能性は低いとされています。

アーロン・コスミンスキー

アーロン・コスミンスキーはポーランド系ユダヤ人で、精神病院に入院していました。警察の記録や回顧録に彼の名前が登場しており、犯人がポーランド系ユダヤ人だとされていたことから、容疑者として挙げられました。また、彼のDNAが被害者のショールから発見されたという報道もありましたが、専門家からは信頼性に乏しいとされています。

マイケル・オストログ

マイケル・オストログはロシア生まれの詐欺師で、多くの偽名を使っていました。1889年にマクノートンが彼を容疑者として挙げましたが、重大犯罪に関わった証拠は見つかりませんでした。事件期間中に微罪で投獄されていた記録があります。

ジョン・パイザー

ジョン・パイザーはホワイトチャペルで靴屋を営んでいたポーランド系ユダヤ人で、「レザー・エプロン」という渾名で呼ばれていました。刺殺事件の前科があったため容疑者として逮捕されましたが、アリバイが証明され釈放されました。彼は、自分の逮捕が警察官の偏見によるものだと主張しました。

ジェームズ・トマス・サドラー

ジェームズ・トマス・サドラーは、ホワイトチャペル殺人事件の最後の犠牲者であるコールズの友人です。彼女の死の数時間前に一緒に酒を飲んでおり、口論しているところを目撃されていたため、容疑者として逮捕されました。しかし、カノニカル・ファイブの時期には海上にいたことが判明し釈放されました。

フランシス・タンブルティ

フランシス・タンブルティはアメリカで「インディアン・ハーブ」を売っていた医師です。同性愛行為で逮捕されましたが、裁判を受ける前に逃亡しました。彼の逮捕は、切り裂きジャック事件との関連があるとしてアメリカで報道されました。しかし、イギリスの警察は彼を容疑者として扱っていませんでした。

当時の報道や世論によるもの

切り裂きジャック事件はメディアで大きく取り上げられ、様々な人物が容疑者として名前が挙がりましたが、ほとんどは真剣に受け止められるものではありませんでした。

ウィリアム・ヘンリー・バリー

ウィリアム・ヘンリー・バリーは、妻殺しで有罪判決を受け死刑になった殺人者です。妻を殺害した後、遺体をトランクに詰めましたが、切り裂きジャック事件との関連は否定しました。

トマス・ニール・クリーム

トマス・ニール・クリームは、無認可中絶の専門医で、毒殺事件で有罪になりました。彼の最期の言葉が「俺はジャック・ザ...」だったという話がありますが、証拠はなく、また、切り裂きジャック事件の時期は刑務所に収監されていたため、犯人である可能性は低いとされています。

トーマス・ヘイン・カットブッシュ

トーマス・ヘイン・カットブッシュは、梅毒に起因する妄想性障害で2人の女性を襲った医学生です。新聞は彼が切り裂きジャックだと示唆しましたが、警察は真剣に受け止めませんでした。

フレデリック・ベイリー・ディーミング

フレデリック・ベイリー・ディーミングは妻殺しの連続殺人犯で、逮捕後に自分が切り裂きジャックだと主張しました。しかし、切り裂きジャック事件の期間は、投獄または南アフリカにおり、犯人である可能性は低いとされています。

カール・フェイゲンバウム

カール・フェイゲンバウムは、女性を殺害したり切り刻みたいという願望を抱いていたと弁護人が証言したドイツ人商船員です。彼が切り裂きジャックであるという説はありましたが、有力な証拠はありません。

ロバート・ドンストン・スティーブンソン

ロバート・ドンストン・スティーブンソンは、オカルトに興味を持つジャーナリストで、事件が始まる直前に病院に入院し、事件が収まった直後に退院しました。彼は記事で黒魔術が殺人の動機だと主張しましたが、警察は彼を容疑者とは見なしませんでした。

イギリス王室陰謀論

イギリス王室陰謀論は、後世に登場した信頼性の低い説ですが、そのセンセーショナルな内容からフィクションで人気があります。アルバート・ヴィクター王子が犯人であるとする説や、政府機関が関与したとする説などがあります。

アルバート・ヴィクター王子（クラレンス・アヴォンデイル公爵）

アルバート・ヴィクター王子は、ヴィクトリア女王の孫であり、王位継承順位2位でした。彼が梅毒で乱心し、殺人を犯したとする説がありましたが、彼には強力なアリバイがあり、この説は否定されています。

ウィリアム・ウィジー・ガル

ウィリアム・ウィジー・ガルは、ヴィクトリア女王の侍医で、切り裂きジャックとする説があります。しかし、証拠はまったくなく、当時70代の老人であり、脳卒中を起こしたばかりだったため、有力な説ではありません。

ウォルター・シッカート

ウォルター・シッカートは画家で、切り裂きジャック事件に興味を持ち、これをモチーフとした絵画を残しました。彼が切り裂きジャックであるという説がありますが、事件のほとんどの期間はフランスにいたという証拠があります。

ジェームズ・ケネス・スティーヴン

ジェームズ・ケネス・スティーヴンは詩人で、アルバート・ヴィクターの家庭教師でした。彼が切り裂きジャックであるという説がありましたが、筆跡鑑定で反論され、証拠不十分とされています。

後から推測されたもの

事件から数年を経て提起された容疑者には、当時の記録によって事件に少しでも関連している者や、警察の捜査ではまったく考慮もされなかった著名人が含まれています。歴史的な裏付けは乏しいものの、様々な人物が犯人として告発されています。

ジョセフ・バーネット

ジョセフ・バーネットはメアリー・ケリーの恋人で、彼女が売春に戻ったことで喧嘩別れしました。ケリー殺害後、警察の事情聴取を受けましたが、釈放されました。後世の研究では、彼がケリーを殺害した可能性が指摘されています。

ルイス・キャロル

ルイス・キャロルは『不思議の国のアリス』の作者で、彼を容疑者として挙げた著述家がいましたが、この説は学者からまともに相手にされていません。

デヴィッド・コーエン

デヴィッド・コーエンは、精神病院に入院していたポーランド系ユダヤ人で、事件の終結と同時に病院に収容されました。彼は「レザー・エプロン」と同一視され、犯人説が提唱されました。

ジョージ・ハッチンソン

ジョージ・ハッチンソンは、ケリー殺しについて警察に情報提供を行った人物です。彼の証言は警察幹部たちの間でも議論がありました。現代の研究では、彼こそが切り裂きジャックであり、嘘の証言をして捜査を攪乱させようとしたのではないかとする学説もあります。

ジェームズ・ケリー

ジェームズ・ケリーは、妻を殺害した精神障害者で、精神病院から脱走しました。脱走から約40年後に自首しましたが、犯人であるという証拠はありません。

チャールズ・アレン・レクミア

チャールズ・アレン・レクミアは、最初の犠牲者であるニコルズの遺体の第一発見者です。彼の証言に矛盾があり、殺害時刻や場所との関連性も指摘されているため、犯人である可能性が浮上しています。

ジェイコブ・レヴィ

ジェイコブ・レヴィは肉屋で、犯行範囲の中心地に住んでいました。梅毒を患っていたため、動機もあったとされています。

ジェームズ・メイブリック

ジェームズ・メイブリックは綿花商人です。彼が書いたとされる日記が出版されましたが、捏造であることが判明しました。

マイケル・メイブリック

マイケル・メイブリックは作曲家で、事件発生時に頻繁にホワイトチャペル周辺を訪れていた記録があります。

アレクサンダー・ペダチェンコ

アレクサンダー・ペダチェンコは、1923年に出版された回想録に登場する人物です。彼は、ラスプーチンが切り裂きジャックだと語っていたとされていますが、実在の人物である証拠はありません。

ジョセフ・シルバー

ジョセフ・シルバーはポーランド系ユダヤ人で、南アフリカの歴史家によって切り裂きジャックだと主張されました。しかし、証拠は全くありません。

フランシス・トンプソン

フランシス・トンプソンは、アヘン中毒の詩人です。彼が切り裂きジャックだという説が唱えられています。

ウィリー・クラークソン

ウィリー・クラークソンは、王室御用達のウィッグ製作者です。切り裂きジャック事件現場近くで、彼が製作したカツラが見つかったという証拠から犯人説が提唱されました。

ジョン・ウィリアムズ

ジョン・ウィリアムズは、ヴィクトリア女王の娘の産科医です。彼が不妊症の研究のために犠牲者を殺害したとする説がありますが、証拠は不十分とされています。

その他の説

他にも多数の容疑者が挙げられていますが、いずれも有力な証拠はありません。アーサー・コナン・ドイルは女性犯人説を提唱し、「切り裂きジル」と呼ばれる犯人がいた可能性も指摘されています。

切手の唾液痕や筆跡鑑定に基づいた犯人特定も試みられましたが、証拠としては信頼性が低いとされています。また、複数犯行説や、犯人がホワイトチャペル地元民であるという説もありますが、いずれも結論には至っていません。

切り裂きジャック事件は、未だに多くの謎が残されたまま、その真相は闇に包まれています。

脚注

注釈

出典

参考文献

[参考文献一覧]

外部リンク

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