医師ガシェの肖像

医師ガシェの肖像：ゴッホ最晩年の傑作

フィンセント・ファン・ゴッホが1890年6月、死のわずか1ヶ月前に描いた『医師ガシェの肖像』は、彼の代表作の一つであり、同時にその生涯と芸術観を深く物語る作品です。油彩で描かれたこの肖像画は、同名の作品が複数存在し、本項では油彩画2点と、エッチング作品1点について解説します。

絵画の背景

ゴッホは当時、精神を病みながらも創作意欲を失わず、ウジェーヌ・ドラクロワの絵画『トルクァート・タッソ』に深い関心を抱いていました。彼は弟テオに、この絵のリトグラフを入手できないかと手紙で尋ねています。この背景には、ゴッホ自身の肖像画への探求がありました。彼は「思想のある肖像画、モデルの魂を捉えること」を理想としていました。

ガシェが手にしているジギタリスは、当時心臓病の薬として知られていました。これは、医師であるガシェを象徴する植物として描かれています。ジギタリスは「狐の手袋」とも呼ばれ、かつては民間薬としても用いられていました。

ポール・ガシェについて

モデルとなったポール・ガシェは、精神科医でありながら、芸術愛好家でもありました。ゴッホはガシェの診察を受け、彼の勧めでオーヴェル＝シュル＝オワーズに移り住みます。ゴッホはこの地で、ガシェの家族と親交を深め、創作意欲を再び燃やしました。短い期間でしたが、約80点もの作品を残しています。ガシェ自身も画家であり、ゴッホの死後、「死の床のファン・ゴッホ」という作品を制作しました。ガシェは憂鬱な性質を持っていたとされ、それはゴッホの肖像画にも表れています。

それぞれのバージョン

第1バージョン

最初のバージョンは、数奇な運命を辿りました。弟テオの未亡人によって売却された後、様々な画商や収集家の手に渡り、最終的にはドイツの美術館に収蔵されました。しかし、ナチス政権下で「退廃芸術」として没収され、ヘルマン・ゲーリングの手に渡った後、再び売却されました。

アメリカに渡ったこの絵は、一時的にメトロポリタン美術館に寄託されましたが、その後、オークションにかけられました。1990年には、当時史上最高額となる8250万ドルで、日本の実業家、齊藤了英が落札しました。この落札は世界中で大きな話題となり、ゴッホの作品はさらに有名になりました。しかし、齊藤の「死んだら棺に入れて焼いてくれ」という発言が報道され、批判を浴びました。その後、彼の死後も絵は公開されず、所在不明となっていました。

その後、1997年頃に斎藤家がサザビーズに売却し、オーストリア出身のヘッジファンド投資家が推定9000万ドルで購入した事が判明しています。しかし、2007年に彼が破産したため、再び売却されました。現在の所在は不明です。

第2バージョン

第2バージョンは、ゴッホがガシェに贈った複製とされています。ガシェの死後、その遺族が他のコレクションと共にフランス政府に寄贈しました。現在は、オルセー美術館に収蔵されています。

まとめ

『医師ガシェの肖像』は、ゴッホの芸術と人生が凝縮された作品であり、その流転の歴史もまた、多くの人々を魅了しています。異なるバージョンが存在し、それぞれが独自の物語を語っています。ゴッホが描いたガシェの肖像は、単なる人物画にとどまらず、芸術家の魂の深淵を覗かせる作品といえるでしょう。

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