和解 (志賀直哉の小説)

和解（わかい）

作品概要

志賀直哉によって著された中編小説『和解』は、1917年（大正6年）10月1日に雑誌『黒潮』に発表されました。これは、作者自身を投影した人物「順吉」が、長年にわたり続いていた父との間の確執を解消し、和解へと至る経緯を描いた私小説の代表的な作品の一つです。

初出の『黒潮』版では、後に追加された妻の出産に関する重要な部分（現在の第十節に相当）が未掲載で、全十五節で構成されていました。翌1918年（大正7年）1月、新潮社から刊行された作品集『夜の光』に収録される際に出産部分が加筆され、全十六節の完成形となりました。父との不和の原因や具体的な経緯については作中で詳しく語られていませんが、志賀の他の作品、『大津順吉』や『或る男、其姉の死』にも同様の父子関係が描かれています。

執筆背景と速度

作品発表の年の8月には、志賀直哉自身と父との間に実際の和解が成立しています。作中における父との和解の日付は、1917年8月30日とされています。

志賀自身が語るところによれば、この小説は、父との和解が成立したことによる喜びと興奮に駆られ、それまで執筆していた他の作品を一旦中断し、和解という出来事を題材に一気に書き上げられたものです。平均して1日に原稿用紙10枚という速さで、わずか半月で完成したと述べており、これは彼にとって「後にも先にもない記録」であったと振り返っています。このことから、『和解』が志賀作品の中でも特に短期間で、強い感情の動機によって生み出された稀有な作品であることがわかります。

登場人物とモデル

『和解』に登場する人物には、作者の身近な人々がモデルとして存在します。

順吉（モデル：志賀直哉）: この物語の語り手であり主人公。作者自身の分身です。
妻（モデル：志賀康子）: 武者小路実篤の従妹にあたる勘解由小路（かでのこうじ）家の出身です。志賀直哉より7歳年下でした。
父（モデル：志賀直温）
実母（モデル：志賀銀）
母（モデル：志賀浩）: 直哉の実母の没後、後妻として志賀家に入った人物。直哉とは11歳しか年が離れていません。
祖母（モデル：志賀留女）: 武家出身で厳格な性格でしたが、幼い直哉を両親から引き取って育て、実質的な母親役を果たしました。直哉は彼女に対し、深い絆と愛情を感じていました。作中では触れられていませんが、読み書きができなかった人物です。
赤児（モデル：志賀慧子）: 長女ですが、1916年（大正5年）に幼くして亡くなります。草稿には、誕生時の様子が詳しく記されています。
赤児（モデル：志賀留女子）: 次女。祖母・留女の名にちなんで名付けられました。
叔父（モデル：志賀直方）: 志賀直哉より4歳年上で、幼少期から共に育ったため、兄弟のような親しい関係でした。
順三（モデル：志賀直三）: 後妻である浩の子。十六章に登場します。史実では、先妻の子である兄・直哉を家族の中心と感じ、孤独感を抱えていたことが窺えます。
龍（モデル：坂巻たかか）: 志賀家に子守として入り、後に女中となった人物。
常（モデル：志賀家の女中 常）
Y（モデル：柳宗悦）: 順吉の友人であり思想家。順吉の家の近所に住み、慧子の危篤時には治療を手伝いました。
K子さん（モデル：柳兼子）: Yの妻で声楽家。慧子の危篤に際し、手紙でアドバイスを送っています。
M（モデル：武者小路実篤）: 順吉の友人で小説家。九章で順吉の隣村に移り住みます。作中では、Mとの交流が「自分の心にいい影響を与えた」と回想されています。武者小路は実際に我孫子に住み、志賀や柳と親しく交友し、ロダンを深く敬愛していました。
或る親しい友（モデル：園池公致）
産婆（モデル：篠崎リンか）: 信頼の厚い助産婦の資格を持つ住み込み看護婦で、志賀家の子どもたちの出産に立ち会いました。
K君（モデル：木下検二か）: 二年ほど前から友人となった人物として十章に登場します。志賀とは赤城山で交流が始まりました。
医者（モデル：荒井茂雄）: 我孫子にあった回春堂の医師。
隣りの百姓家の婆さん（モデル：津川ます）: 家族ぐるみの付き合いがあった隣家の人物。長女慧子の重体時、志賀を助けました。志賀が我孫子を去る際、愛用の硯などを餞別として贈られています。
三造（モデル：宇田川三之助）: 順吉の家の使いや、渡し舟の船頭を務めた人物。吃音でしたが真面目で優しい人柄で皆から慕われました。
SK（モデル：九里四郎）: 画家。志賀が自宅にテニスコートを設置した際に関わった人物です。

作品の舞台

物語の舞台は主に、作者が当時居住していた我孫子と、父の屋敷があった麻布です。

志賀直哉は我孫子での生活について、面白いこともあった一方、「退屈」で「刺戟のない田舎生活」は若い夫婦にとって「悲劇の起る可能性のある危険なもの」だったと振り返っており、必ずしも肯定的に捉えていなかったことが窺えます。

作中の五章、六章に登場する回春堂は、我孫子に実在した医院です。当時の医師は荒井茂雄で、町で唯一の医院として地域医療を支えていました。麻布には、父・志賀直温の広大な屋敷がありました。麻布区三河台（現在の六本木周辺）に位置し、直哉は14歳から父との不和で尾道に移る29歳までこの屋敷で過ごしました。この屋敷へ向かう急な坂が、作中の「麻布の家へ登る坂」として描かれています。十六章に出てくる山王台の料理屋は、現在の千代田区永田町にある星岡茶寮（開業当時は星ケ岡茶寮）がモデルです。父・直温はこの料亭の料理を愛好していたとされます。

作中に言及される関連作品

『和解』の中では、主人公「順吉」が執筆中の作品や、過去に発表した作品について触れられています。

「夢想家」（「空想家」）: 作中、順吉が執筆を続ける主要な作品として言及され、『暗夜行路』の前身である『時任謙作』に関連する複数の草稿やノートの記述を指していると考えられています。
「廻覧雑誌に書いた短編」2篇: 九章でMに見せる短編のうち、Mが発表を勧めたのは『城の崎にて』（1917年5月『白樺』掲載）です。その「翌々月」に発表されたとされるのは、『佐々木の場合』（1917年6月『黒潮』掲載）です。
「女中が懐妊する」話: 九章であらすじが紹介される作品は、『好人物の夫婦』（1917年8月『新潮』掲載）です。この作品で志賀は初めて雑誌『新潮』に登場しました。
「或る親子」: 作中や冒頭で「自分が書いたものではない」と断りがある作品です。実際には、尾道で知り合った藤井福一氏が書いたものだと後に明かされています。1917年8月5日に『読売新聞』の日曜付録に掲載されました。

『和解』は、志賀直哉が自己の最も内面的な出来事である父との和解を、私小説という形式で率直に描き出した作品であり、彼の作風や背景を理解する上で重要な位置を占めています。

もう一度検索