天皇陛下大いに笑ふ
「天皇陛下大いに笑ふ」：戦後の天皇像とジャーナリズムを変えた座談会
1949年（昭和24年）6月に雑誌『文藝春秋』へ掲載された「天皇陛下大いに笑ふ」は、戦後の日本社会に大きな波紋を投じた記事です。これは、その年の2月25日に昭和天皇と文芸界の異才、辰野隆（フランス文学者）、徳川夢声（話術家・俳優）、サトウハチロー（詩人・作詞家）の三人が対面した際の模様を、彼ら自身が振り返る座談会形式で構成されています。
この異色の企画は、戦後間もない時期、宮内府（現在の宮内庁）が国民との距離を縮めるべく、民衆に親しまれる文化人との交流を模索する中で生まれました。侍従の入江相政氏らが中心となり調整が進められ、宮中への訪問は、当初予定されていた天皇との直接対話に先立ち、皇居内の生物学研究所を見学するという形が提案され、実現に至りました。
会談当日、三人は入江氏の案内で皇居内を巡り、生物学研究所を見学した後、花陰亭で天皇との対面を果たします。座談会の記事は、この時の会談の様子を三人が生き生きと語り合う内容となっています。話題は多岐にわたり、皇居見学の感想から、天皇との対面の印象、そしてユーモアに満ちたやり取りが繰り広げられました。
特に読者の関心を引いたのは、三人が天皇を笑わせたエピソードです。会談の冒頭、辰野氏が「今日は図らずも昔の不良少年が、1人ならず3人まで罷り出でまして洵に畏れ多いことでございます」と自己紹介すると、天皇は大きく笑われたといいます。また、中学を八度も転校したというサトウハチロー氏が、野球大会で毎回異なるユニフォームを着ていたという話をした際には、天皇はしばらく笑いが止まらなかったと語られています。徳川夢声氏は、天皇の笑い方を「あまりゲラゲラ笑う習慣がおありにならないんで、初めにハアッと笑われて、あとは笑いの衝動をこらえておられるのかナ、ハアッ――ハアッとお笑いになるんですナ」と描写し、サトウ氏はそれを「なにか笑いを楽しんでいられるようだね」と表現しています。
他にも、スポーツや酒、生物学、植物といった幅広い話題が出た中で、酒を飲まないという天皇に徳川氏が「あんなおいしいものを！」と驚いてみせたり、生物学の話になると天皇が実に生き生きとしていたという感想なども述べられています。会談中の雰囲気についても触れられており、天皇以外は煙草を吸っていたことや、酒飲みの三人に振る舞われたお汁粉（特にサトウ氏にとっては31年ぶりの体験だった）に関するエピソード、さらにはサトウ氏が思わず「ねえ陛下」と二度呼びかけてしまったハプニングなども率直に語られています。
三人は会談を通じて感じた天皇の印象を様々に語っています。徳川氏は「どこを探しても我がない。それでいて、やっぱり日本なんですナ…象徴という字は正にそうです…陛下は日本てえものを人間にしたようなもんですね。日本のいい所だけ集めて」と述べ、辰野氏は天皇を「ネットの存在」と表現し、「偉いとか偉くないとか…そういうことは考えずに、そこに一人の人間が出現したという感じは非常にいい気もちだナ」と、人間としての魅力に触れています。
この記事が生まれるきっかけは意外なものでした。菊池寛の一周忌墓参の帰り、バスの中で画家の宮田重雄氏が会談のエピソードを語ったところ、『文藝春秋』編集長の池島信平氏が即座に興味を示し、記事化を依頼したのです。タイトル「天皇陛下大いに笑ふ」は池島氏が自ら命名したもので、当時の強い左翼思想に対する池島氏なりの「レジスタンス」として「天皇」ではなく「天皇陛下」を用いたこと、「笑わせ給う」ではなく親しみやすい「大いに笑ふ」としたことなどが語られています。このタイトルに対しては、一部から不敬であるとの意見も出ました。
掲載された記事は、戦後の社会に大きな反響を巻き起こしました。左翼的な立場や若い世代を中心に批判的な声も上がった一方、『文藝春秋』の読者からは高く評価され、この年から始まった読者賞では読者投票で1位を獲得しました。この記事が掲載された号を機に、『文藝春秋』の部数は飛躍的に増加し、同誌の復興と発展に大きく貢献したと言われています。ただし、この部数増は、同時期に掲載された二・二六事件の手記など、当事者の証言を重視する一連の企画手法全体が読者に受け入れられた結果とも考えられています。
「天皇陛下大いに笑ふ」の成功は、その後、天皇を主題とした出版が増加する流れも生み出しました。また、この記事は、当時のジャーナリズムのあり方についても示唆を与えました。扇谷正造氏のようなジャーナリストは、この記事を読んで、当時の国民の天皇に対する本音を見抜いた洞察力に、自身の力量を試されたと感じたと述べています。一方で、読者賞の審査員からは、天皇への根源的な畏敬の念が「無反省に澱んでいる」として低い評価がなされるなど、様々な視点からの議論を巻き起こしました。
後年、歴史家の司馬遼太郎氏は、この記事が当時の「正論」（『世界』誌などに代表される）に対する「アンチテーゼ」として機能し、国民が天皇とともに笑うことで、象徴天皇制下の新しい関係性を築く一助となったと論じています。また、半藤一利氏や保阪正康氏は、この記事が天皇の地方巡幸での「あ、そう」発言と並んで、庶民に親しまれる天皇像を形成する上で重要な役割を果たしたとの見解を示しています。
「天皇陛下大いに笑ふ」は、単なる雑誌記事に留まらず、戦後の日本社会における天皇像の変遷、ジャーナリズムの役割、そして国民感情の一端を映し出す貴重な記録として、今なお語り継がれています。
1949年（昭和24年）6月に雑誌『文藝春秋』へ掲載された「天皇陛下大いに笑ふ」は、戦後の日本社会に大きな波紋を投じた記事です。これは、その年の2月25日に昭和天皇と文芸界の異才、辰野隆（フランス文学者）、徳川夢声（話術家・俳優）、サトウハチロー（詩人・作詞家）の三人が対面した際の模様を、彼ら自身が振り返る座談会形式で構成されています。
この異色の企画は、戦後間もない時期、宮内府（現在の宮内庁）が国民との距離を縮めるべく、民衆に親しまれる文化人との交流を模索する中で生まれました。侍従の入江相政氏らが中心となり調整が進められ、宮中への訪問は、当初予定されていた天皇との直接対話に先立ち、皇居内の生物学研究所を見学するという形が提案され、実現に至りました。
会談当日、三人は入江氏の案内で皇居内を巡り、生物学研究所を見学した後、花陰亭で天皇との対面を果たします。座談会の記事は、この時の会談の様子を三人が生き生きと語り合う内容となっています。話題は多岐にわたり、皇居見学の感想から、天皇との対面の印象、そしてユーモアに満ちたやり取りが繰り広げられました。
特に読者の関心を引いたのは、三人が天皇を笑わせたエピソードです。会談の冒頭、辰野氏が「今日は図らずも昔の不良少年が、1人ならず3人まで罷り出でまして洵に畏れ多いことでございます」と自己紹介すると、天皇は大きく笑われたといいます。また、中学を八度も転校したというサトウハチロー氏が、野球大会で毎回異なるユニフォームを着ていたという話をした際には、天皇はしばらく笑いが止まらなかったと語られています。徳川夢声氏は、天皇の笑い方を「あまりゲラゲラ笑う習慣がおありにならないんで、初めにハアッと笑われて、あとは笑いの衝動をこらえておられるのかナ、ハアッ――ハアッとお笑いになるんですナ」と描写し、サトウ氏はそれを「なにか笑いを楽しんでいられるようだね」と表現しています。
他にも、スポーツや酒、生物学、植物といった幅広い話題が出た中で、酒を飲まないという天皇に徳川氏が「あんなおいしいものを！」と驚いてみせたり、生物学の話になると天皇が実に生き生きとしていたという感想なども述べられています。会談中の雰囲気についても触れられており、天皇以外は煙草を吸っていたことや、酒飲みの三人に振る舞われたお汁粉（特にサトウ氏にとっては31年ぶりの体験だった）に関するエピソード、さらにはサトウ氏が思わず「ねえ陛下」と二度呼びかけてしまったハプニングなども率直に語られています。
三人は会談を通じて感じた天皇の印象を様々に語っています。徳川氏は「どこを探しても我がない。それでいて、やっぱり日本なんですナ…象徴という字は正にそうです…陛下は日本てえものを人間にしたようなもんですね。日本のいい所だけ集めて」と述べ、辰野氏は天皇を「ネットの存在」と表現し、「偉いとか偉くないとか…そういうことは考えずに、そこに一人の人間が出現したという感じは非常にいい気もちだナ」と、人間としての魅力に触れています。
この記事が生まれるきっかけは意外なものでした。菊池寛の一周忌墓参の帰り、バスの中で画家の宮田重雄氏が会談のエピソードを語ったところ、『文藝春秋』編集長の池島信平氏が即座に興味を示し、記事化を依頼したのです。タイトル「天皇陛下大いに笑ふ」は池島氏が自ら命名したもので、当時の強い左翼思想に対する池島氏なりの「レジスタンス」として「天皇」ではなく「天皇陛下」を用いたこと、「笑わせ給う」ではなく親しみやすい「大いに笑ふ」としたことなどが語られています。このタイトルに対しては、一部から不敬であるとの意見も出ました。
掲載された記事は、戦後の社会に大きな反響を巻き起こしました。左翼的な立場や若い世代を中心に批判的な声も上がった一方、『文藝春秋』の読者からは高く評価され、この年から始まった読者賞では読者投票で1位を獲得しました。この記事が掲載された号を機に、『文藝春秋』の部数は飛躍的に増加し、同誌の復興と発展に大きく貢献したと言われています。ただし、この部数増は、同時期に掲載された二・二六事件の手記など、当事者の証言を重視する一連の企画手法全体が読者に受け入れられた結果とも考えられています。
「天皇陛下大いに笑ふ」の成功は、その後、天皇を主題とした出版が増加する流れも生み出しました。また、この記事は、当時のジャーナリズムのあり方についても示唆を与えました。扇谷正造氏のようなジャーナリストは、この記事を読んで、当時の国民の天皇に対する本音を見抜いた洞察力に、自身の力量を試されたと感じたと述べています。一方で、読者賞の審査員からは、天皇への根源的な畏敬の念が「無反省に澱んでいる」として低い評価がなされるなど、様々な視点からの議論を巻き起こしました。
後年、歴史家の司馬遼太郎氏は、この記事が当時の「正論」（『世界』誌などに代表される）に対する「アンチテーゼ」として機能し、国民が天皇とともに笑うことで、象徴天皇制下の新しい関係性を築く一助となったと論じています。また、半藤一利氏や保阪正康氏は、この記事が天皇の地方巡幸での「あ、そう」発言と並んで、庶民に親しまれる天皇像を形成する上で重要な役割を果たしたとの見解を示しています。
「天皇陛下大いに笑ふ」は、単なる雑誌記事に留まらず、戦後の日本社会における天皇像の変遷、ジャーナリズムの役割、そして国民感情の一端を映し出す貴重な記録として、今なお語り継がれています。
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