幻 (源氏物語)

『源氏物語』「幻」：光源氏の悲嘆と出家への決意

『源氏物語』五十四帖中、第四十一帖にあたる「幻」は、紫の上を失った光源氏の深い悲しみと、やがて訪れる出家への決意を描いた、深く心に響く物語です。物語は光源氏52歳の正月から始まり、一年にわたる彼の心の遍歴を、四季の移ろいとともに繊細に表現しています。

巻名「幻」は、光源氏が紫の上を偲んで詠んだ歌「大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ魂（たま）の行く方たづねよ」に由来しています。この歌は、天空を自由に飛び交う幻術師に、消え失せた愛しい人の魂の行方を尋ねるという切ない願いを込めており、白居易の『長恨歌』後半部からの着想も認められます。さらに興味深いのは、この歌が、物語冒頭で桐壺帝が亡き桐壺更衣を悼んで詠んだ和歌と呼応している点です。これは物語全体における、喪失と追憶というテーマの重要な伏線と言えるでしょう。

物語のあらすじは、紫の上が亡くなった後の光源氏の孤独と苦悩を描いています。新年を迎えても悲しみは癒えず、光源氏は引きこもり、紫の上が仕えていた女房たちと語り合う日々を送ります。明石の中宮は、紫の上が可愛がっていた匂宮を光源氏の慰めに残し、宮中に帰ります。春が訪れるにつれて、故人への想いは募り、女三宮や明石の御方のもとを訪れても、悲しみは増すばかりです。

物語の中心となるのは、光源氏が紫の上が生前に愛用していた手紙を焼く場面です。これは『竹取物語』でかぐや姫が帝に残した不死の薬を帝が焼却するエピソードと類似しており、物語に奥行きを与えています。手紙を焼くという行為は、過去への執着を断ち切り、未来へと歩みを進める光源氏の決意を表していると言えるでしょう。

その後も、光源氏は花散里からの贈り物や、紫の上の一周忌、命日の供養などを通して、喪失の痛みと向き合います。そして、年が明けたら出家するという決意を固め、身辺整理を始めます。須磨にいた頃に届いた紫の上の手紙の束を見つけ、墨の色がまるで今書いたばかりのように鮮やかなことに心を打たれながらも、すべてを燃やしてしまいます。この行動は、光源氏が過去への執着を断ち切り、新たな人生へと踏み出そうとする強い意志の表れでしょう。

物語の終盤、源氏は六条院で行われた御仏名の席に久しぶりに姿を現します。その姿はかつての輝きを増し、出席者たちを感動させます。そして、最後に三の宮と過ごした追儺の宴の後、源氏は静かに新年を迎える準備をします。この一年間の出来事を経て、光源氏は深い悲しみを乗り越え、新たな境地へと至ろうとしていることが分かります。

「幻」は、単なる悲恋物語ではなく、喪失と再生、そして人間の心の深淵を描き出した、傑作と言えるでしょう。光源氏の複雑な心情、四季の移ろい、そして他の物語からの引用など、様々な要素が絡み合い、読者に深い感動を与え続ける名作です。光源氏の苦悩と出家への決意、そしてその過程で彼を取り巻く人々の姿を通して、人間の存在の脆さと強さを改めて考えさせられます。

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