想像の共同体

『想像の共同体：ナショナリズムの起源と流行』（Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism）は、米国の政治学者であるベネディクト・アンダーソンが1983年に著した画期的な一冊です。本書は、ナショナリズムという現象がどのように生まれ、広まっていったのかを歴史的に深く考察し、その本質を「想像の共同体」という概念で捉え直したことで、その後のナショナリズム研究に絶大な影響を与えました。

ナショナリズムの「想像」と形成

アンダーソンが本書で取り組んだのは、ナショナリズムの歴史的な起源を探る試みです。彼は、国民国家が形づくられる以前の社会構造にまず目を向けます。かつて人々を結びつけ、社会を秩序立てていたのは、宗教的な共同体や、王朝による支配でした。しかし、これらの伝統的な絆が弱まるにつれて、新たな共同体のあり方として「国民」が登場した、と彼は論じます。

アンダーソンは、国民とは、実際に顔を合わせたり互いを知り合ったりしているわけではないにも関わらず、自分たちが一つの集団に属していると「想像」することによって成り立つ共同体であると定義しました。これが彼の提唱する「想像の共同体」という概念です。どんな小さな国民でも、その成員すべてを知ることは不可能ですが、一人ひとりの心の中には、自分たちと「同じ」国民が存在しているというイメージが共有されている、というわけです。

そして、この新しい共同体の誕生を強く後押ししたのが、資本主義経済の発展と、印刷技術によってもたらされた情報伝達の革新、すなわち「印刷資本主義」であったと指摘します。特に、出版産業が営利目的で特定の言語を用いた印刷物を広く流通させたことが、共通の言語を持つ人々の間に一体感を生み出し、「想像の共同体」としての国民を形作る基盤を提供したというのです。新聞や小説などを読むことで、同じ時間に同じ情報を消費している見知らぬ人々との間に、漠然とした共属感が生まれたと説明します。

このようにして「想像の共同体」としての国民の基盤が築かれる中で、18世紀から19世紀にかけて国民国家が登場します。国民国家は単に行政単位として成立しましたが、その内部での人々の交流、例えば公的な場での手続きや教育などを通じて、同じ時間、同じ空間を共有しているという感覚が生まれ、それがさらにお互いを「同朋」であると感じる意識へとつながっていきました。さらに、大航海時代に多様な外国語が発見されたことは、自らの言語を相対的に見つめ直し、体系的に研究することを可能にしました。こうした言語研究や文学活動に携わる知識層が、国民意識を育む上で重要な文化的役割を担ったことも看過できません。

こうした歴史的なプロセスを経て、19世紀にはいわゆる「公定ナショナリズム」と呼ばれる形態が登場します。これは、国家が国民を統合し、支配を正当化するために意図的に作り出したナショナリズムであり、伝統的な王朝の権威と、近代的な国民統合の原理を巧妙に組み合わせた特徴を持つものです。

アンダーソンは繰り返し、ナショナリズムとは言語を介して「想像」された共同体の一形態であると強調します。そして、人々が自分たちの「国民」に対してなぜかくも強い愛着を感じ、時には自己犠牲さえ厭わないのかについて、国民という言葉が、血縁や地縁とは異なる、ある種の深い愛情や連帯感を喚起する力を持っているからだと考察しています。

学術的な位置づけ

アンダーソンが本書を執筆した背景には、当時の主流であったマルクス主義や自由主義理論が、ナショナリズムという現象を十分に説明できていないという問題意識がありました。彼は、ネイション（国民）やナショナリズムは古代から存在する普遍的なものではなく、特定の歴史的・社会的な条件の下で近代に「創られた」ものであると考える点で、アーネスト・ゲルナーやエリック・ホブズボームらと並び、ナショナリズム研究における「近代主義」学派の主要な論者と位置づけられています。「近代主義」学派は、ネイションが人類史の黎明期から自然に存在してきた共同体であると主張する「原初主義」学派とは根本的に立場を異にします。

しかし、ゲルナーやホブズボームがナショナリズムに対してやや批判的な視点を持つのに対し、アンダーソンはその理念自体に必ずしも敵対的ではありません。また、グローバル化が進む現代においてもナショナリズムが衰退に向かうとは考えていません。むしろ、彼はナショナリズムが持つある種の「ユートピア的」な、人々に希望や連帯感を与える側面にも価値を見出しているのである。

『想像の共同体』は、そのユニークな視点と明快な論理展開により、政治学、社会学、歴史学、文化研究など、幅広い分野に影響を与え続ける古典として読み継がれています。ナショナリズムを感情や文化といった側面から捉え直す道を切り拓き、その後の研究に多大な示唆を与えたその功績は計り知れません。

もう一度検索