慎機論

慎機論（しんきろん）

『慎機論』は、江戸時代後期の田原藩家老・渡辺崋山が、幕府の対外政策を批判的に考察した私的な文書です。モリソン号事件をきっかけに、日本の外交政策のあり方について深く憂慮し、その考えをまとめました。しかし、この書が後に崋山自身を苦しめることになります。

成立の背景

1837年、アメリカ商船モリソン号が漂流民を送還しようと江戸湾に近づきましたが、異国船打払令によって砲撃を受け、退去を余儀なくされました。この事件を受け、評定所記録方の芳賀市三郎が、モリソン号に関する情報と、強硬な対応を主張する評定所一座の答申案を、崋山ら尚歯会の同志に示しました。崋山は、幕府がモリソン号に対し強硬手段を取る可能性を危惧し、長年の対外政策への不満も込めて『慎機論』を執筆したのです。

内容の要約

『慎機論』は、「我が田原は三州渥美郡の南隅にありて」という書き出しで、田原藩という小さな藩にも海外の情報が入ってくることを述べ、モリソン号事件に話題を移します。モリソンという人物を紹介し、彼が助手を介して、ロシアが日本を侵略しようとしているという噂を長崎にもたらしたことに触れます。そして、小国ポーランドが列強に分割された例を引き合いに出し、モリソン号事件を軽視すべきではないと主張します。

崋山は、日本が外国人に厳しすぎる態度を取っていることを批判し、過去のロシアとの紛争を引き合いに出して、幕府が政策を改めようとしないことを嘆きます。西洋諸国の発展、特にアメリカの台頭を指摘し、日本だけが西洋との交流を避けている現状を憂います。漂流民を送還する船を砲撃するような行為は、西洋諸国から非難を浴び、国を滅ぼす原因になりかねないと警告します。また、中国が実学を軽視し、明末のような状況に陥っていることを例に挙げ、日本も同様の道を辿る危険性があると指摘します。

当時の政治状況にも言及し、国を動かす人々が無能であると批判します。貴族出身の者は世間知らずで、実権を握る者は汚職にまみれ、儒学者は現実から目を背けていると嘆きます。そして、「今夫れ此の如くなれば、ただ束手して寇を待むか」という絶望的な言葉で締めくくられます。

内容の矛盾と限界

『慎機論』は、全体として幕府の排他的な海防政策を批判しながらも、海防の不備を憂えるなど、一貫性に欠ける部分があります。モリソン号の打ち払いに対する是非や、交易を許可すべきかどうかを明確にできず、最終的には海防の弱体を放置する為政者を非難するという、不可解な文章となっています。崋山自身が開国を期待しながらも、田原藩の家老という立場上、自身の考えを率直に表現できなかったことが、この矛盾の原因と考えられます。

錯誤

情報不足から、崋山はモリソン号がまだ来航していない、評定所一座の答申が幕府の方針を示すものという2点の誤認に基づいて『慎機論』を執筆しました。しかし実際には、モリソン号は既に来航して打ち払われており、幕府は漂流民をオランダ船に託して帰国させる方針でした。

発見と影響

崋山自身は、『慎機論』を未完成の文章として公開しませんでした。しかし、蛮社の獄の際に幕府の役人によって発見され、日の目を見ることになりました。写本として伝わっていますが、元々が「乱稿」であるため、決定的な底本は存在しません。

崋山は蛮社の獄によって自害に追い込まれましたが、翌年のアヘン戦争での清の敗北は、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えました。対外的な危機感が高まる中で、『慎機論』は多くの為政者や知識人に読まれ、幕末の志士たちにも影響を与えました。

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