蛮社の獄

蛮社の獄：蘭学弾圧事件の真相

蛮社の獄（ばんしゃのごく）は、天保10年（1839年）に江戸幕府が蘭学者たちを弾圧した事件です。渡辺崋山（わたなべかざん）や高野長英（たかのちょうえい）らが、モリソン号事件と幕府の鎖国政策を批判したことがきっかけとなり、幕府によって捕らえられ、処罰されました。

事件の背景

天保年間（1830年代）の江戸では蘭学が隆盛し、新しい知識を研究し交換する機運が高まっていました。渡辺崋山はその中心人物であり、高野長英や小関三英（こせきさんえい）は、崋山に知識を提供していました。この蘭学を学ぶ人々の集まりは、国学者たちから「蛮社」（南蛮の学を学ぶ集団）と呼ばれていました。

事件の首謀者とされる鳥居耀蔵（とりいようぞう）は、幕府の文教部門を司る林家の出身でした。儒教を重んじる幕府は、朱子学のみを正統な学問とし、他の学説を排除していました。林家は官学主義の象徴であり、蘭学は林家にとって憎悪の対象でした。また、林家の門人でありながら蘭学に傾倒し、儒者を蘭学に引き込む崋山も同様に憎まれていました。

しかし、田中弘之氏の研究によると、林述斎（はやしじゅっさい、耀蔵の父）は蘭学者との交流に寛容であり、モリソン号事件の際にも漂流民の受け入れを主張していました。また、鳥居も蘭学の実用性を認めていた側面があり、単なる蘭学嫌いではなかったと指摘されています。

対外的危機と開国への期待

徳川幕府成立から200年以上が経過した天保年間、幕藩体制の歪みが顕在化し、欧米列強は日本近海への来航を活発化させていました。幕府は、寛政5年（1793年）のラクスマン来航を機に鎖国政策を強化しましたが、蘭学者の間では西洋への関心が高まり、開国への期待が生まれていました。

文政8年（1825年）には異国船打払令が出され、西洋人と日本の民衆を遮断する意図が明確になりました。また、シーボルト事件や天保の大飢饉など、幕府を揺るがす事件が相次ぎました。イギリスが小笠原諸島を占領する計画や、モリソン号の渡来などが蛮社の獄に影響を与え、為政者の不安と有識者の危機意識を掻き立てました。

事件の発端：モリソン号事件

蛮社の獄の発端となったモリソン号事件は、天保8年（1837年）に起こりました。アメリカ商船モリソン号が、漂流民を送り届けるとともに通商を求め浦賀に接近しましたが、異国船打払令により砲撃を受けました。その後、薩摩でも上陸を拒否され、マカオに帰港しました。

幕府は当初、モリソン号が通商を求めてきたことを知りませんでしたが、長崎のオランダ商館からの報告で初めて知りました。幕閣ではモリソン号への対応を協議し、漂流民はオランダ船で返還させる方針となりました。しかし、評定所はモリソン号再来の場合には打ち払うべきと主張し、強硬な意見が目立ちました。

戊戌夢物語と慎機論

幕閣でモリソン号に関する評議が行われていた頃、高野長英は幕府の対外政策を批判する『戊戌夢物語』（ぼじゅつゆめものがたり）を匿名で執筆しました。この書は写本で広まり、幕府に危機意識を生じさせました。一方、渡辺崋山も『慎機論』（しんきろん）を執筆しましたが、幕府への批判を避け、曖昧な内容になってしまいました。

江戸湾巡視と鳥居耀蔵の暗躍

モリソン号事件の後、幕府は鳥居耀蔵と江川英龍（えがわひでたつ）に江戸湾巡視を命じました。鳥居は、蘭学に傾倒する崋山を憎んでおり、この巡視を機に崋山を陥れようと企みました。鳥居は、無人島渡航計画に関わっていた花井虎一（はないとらいち）をスパイとして使い、崋山の情報を収集しました。

事件の展開

鳥居は、崋山が海外渡航を企てているという告発状を水野忠邦（みずのただくに）に提出しました。水野は再調査を命じましたが、最終的に崋山らは逮捕され、蛮社の獄が始まりました。小関三英は逮捕を恐れて自殺し、高野長英は自首しました。

渡辺崋山、高野長英、無人島渡航計画のメンバーは吟味を受けましたが、海外渡航の企ては事実無根であることが判明しました。しかし、鳥居は幕政批判に容疑を切り替え、『慎機論』や『初稿西洋事情書』を証拠として崋山を断罪しようとしました。

判決とその後

蛮社の獄の結果、渡辺崋山は田原での蟄居、高野長英は永牢の判決を受けました。他のメンバーも処罰され、獄中で死亡する者もいました。崋山は判決から2年半後に自刃し、長英は脱獄後に殺害されました。

蛮社の獄は、幕府による言論弾圧事件であり、蘭学者たちの活動を大きく制限しました。この事件は、幕末の思想や政治に大きな影響を与え、開国への流れを加速させる一因となりました。

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