断腸亭日乗

断腸亭日乗：激動の時代を映し出す、荷風の私的記録

『断腸亭日乗』は、近代日本文学を代表する作家、永井荷風が1917年（大正6年）9月16日から1959年（昭和34年）4月29日、死去する前日まで書き続けた日記です。単なる私的な記録にとどまらず、激動の時代を鋭く見つめた貴重な歴史資料であり、文学作品としても高い評価を得ています。

断腸亭と日乗：著者の生活と創作

1917年、37歳を迎えた永井荷風は、すでに文壇で確固たる地位を築いていました。慶應義塾大学教授を辞職後、東京市牛込区大久保余丁町（現在の新宿区余丁町）の自宅に戻り、庭先に秋海棠を植えた一角を「断腸亭」と名付け、そこで日記を書き始めました。秋海棠の別名である「断腸花」から名付けられたこの書斎で、荷風は自らを「断腸亭主人」と称し、日々の出来事を「日乗」として記録していったのです。

初期の『断腸亭日乗』は、和紙に墨で丁寧に書き綴られていましたが、第二次世界大戦後の1945年秋以降は仮綴じとなり、1947年からは大学ノートにペンで書き記すようになります。戦時中は、当局の検閲を恐れて、親しい友人にも日記を見せることはありませんでした。危険な記述は消し、下駄箱に隠して外出するなど、細心の注意を払っていたといいます。しかし、やがてそのような臆病さを恥じ、日記を書き続けることに固執しました。

日乗の内容：多様な視点と鋭い洞察

『断腸亭日乗』は、その日の天候や家事、来客、出版に関する商談、外出、食事、交友関係、散策の様子、街の風景、風俗、世相、噂話、物価、体制への批判、読書、そして読後感など、多岐にわたる内容が漢文調の洗練された文章で記されています。中には、筆で描いたスケッチや地図が添えられているものもあります。

荷風の交友関係は広く、日記には女性との交流や、遊郭・赤線地帯への訪問の様子も記されています。また、荷風は人への好き嫌いが激しく、気に入らない作家への痛烈な批判も隠さず綴られています。晩年まで読書を続け、江戸後期の版本やフランス語の文学作品を読んだ記録も数多く残されています。

佐藤春夫や平井呈一など、交友関係に関する記述には脚色の可能性も指摘されていますが、太平洋戦争末期の混乱と荒廃した社会状況、人々の心の闇を記録した内容は、後世への教訓としても重要な意味を持っています。特に、1945年3月9日の自宅焼亡の記述は、その頂点として多くの人々から評価されています。

東京大空襲後も、荷風は日記原稿を持ち歩き、避難生活の中で日記を書き続けました。1949年頃までは、魅力的な内容が豊富に記されていますが、その後、特に晩年数年間は、ほぼ一日一行の記述のみになります。それでも、最後の瞬間まで日記を書き続けた荷風の執念を感じさせる、貴重な記録となっています。

刊行と関連書籍

『断腸亭日乗』は、戦後、断片的に抄録されたのち、1951年から1952年にかけて中央公論社から全集の一部として刊行されました。その後も様々な出版社から刊行され、2024年には岩波文庫から全文を収載した初の文庫版が刊行される予定です。現在までに多くの関連書籍も出版されており、荷風研究の重要な資料として活用されています。これらを通じて、近代日本の歴史と文化、そして永井荷風という個人の深遠な内面世界に触れることができます。

『断腸亭日乗』は、単なる日記ではなく、激動の時代を生きた一人の人間の記録であり、近代日本文学史における重要な作品です。その詳細な記述と鋭い洞察力は、読者に深い感動と多くの示唆を与え続けています。

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