春は馬車に乗って

横光利一『春は馬車に乗って』

横光利一の短編小説『春は馬車に乗って』は、作者自身の体験を色濃く反映した作品として知られています。結核を患う妻と、彼女を献身的に看護する夫の姿を通して、愛の極限状態と、そこから生まれる静寂を描き出しています。

作品の背景

物語の妻のモデルは、横光の同人仲間であった小島勗の妹、小島キミです。二人は駆け落ち同然で同棲を始めますが、キミは結核を発病し、23歳の若さで亡くなります。本作は、キミの闘病生活と死を看取った横光の深い悲しみと愛情が込められています。戸籍上の婚姻関係を結んだのは、キミの死後でした。

あらすじ

舞台は湘南の海辺。病に臥せる妻のそばで、夫は献身的に看病を続けます。しかし、病状の悪化とともに、夫婦の会話は次第に刺々しいものとなっていきます。夫は妻の気を紛らわせようと努力しますが、妻は病の焦燥からわがままを言い、夫を困らせます。かつて美しかった妻の容姿は変わり果て、食欲も失せていきます。夫は新鮮な魚介類を妻に見せますが、彼女は聖書を読むことを求めます。そんな中、妻は咳の発作を起こし、夫を苦しめます。夫は、妻の健康な頃の嫉妬深さよりも、今の彼女に柔らかさを感じます。

ある日、夫は医者から妻の病状が絶望的であることを告げられます。妻は遺言を書き、死を受け入れようとしています。寒さが和らぎ、春の兆しが見え始めた頃、知人からスイトピーの花束が届きます。夫は花束を妻に差し出し、「春がやって来た」と告げます。妻は花束を胸に抱き、静かに目を閉じます。

作品の魅力

『春は馬車に乗って』は、病という極限状態における夫婦の愛を描いた作品です。横光は、湘南の美しい自然描写と、会話を多用した淡々とした文体で、夫婦の葛藤と愛情を鮮やかに描き出しています。特に、終章でスイトピーの花束が届く場面は、生と死の対比が詩的に表現されており、読者の心を深く揺さぶります。

井上謙は、この作品のラストシーンを「美しい幕切れは、亡妻への愛を込めた鎮魂と、利一の青春への挽歌でもあった」と評しています。また、篠田一士は、横光の絢爛たる修辞にみちあふれた文章や、観念のモザイクに隈どられた小説構成が、志賀直哉を中心とする大正文学の支配勢力に対する反抗であったと指摘しています。

その他の情報

この作品は、新潮文庫や岩波文庫など、様々な文庫で読むことができます。また、Dennis Keeneによる英訳版も存在します。舞台化作品も複数存在し、様々な形で上演されています。白石麻衣が朗読したバージョンもあります。

横光利一の代表作として、今もなお多くの読者に愛され続けている『春は馬車に乗って』。夫婦の愛の形を深く考えさせられる、感動的な作品です。

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