月の山脈

「月の山脈」（ラテン語: Montes Lunae）は、古代ギリシャ・ローマの時代に、東アフリカの深部に存在すると考えられていた伝説上の山脈または山地です。この山脈は、地中海文明にとって長年の謎であったナイル川の源流であると信じられていました。

古代の記録と探求

古代ギリシャの地理学者たちは、古くからナイル川の源流に強い関心を寄せていました。紀元前6世紀には、多くのギリシャ人がエジプトを訪れ、デモクリトスのような人物が「エチオピア」（当時のヌビア地域を指すことが多い）まで旅したとの記録があります。紀元前5世紀の歴史家ヘロドトスも自らナイルを遡り、エレファンティネ島まで達しましたが、源流には至りませんでした。ミレトスのヘカタイオスがナイル源流を環海に求めたり、ヘロドトスがリビア内陸の山脈に考えたりと、様々な説が唱えられました。哲学者アリストテレスは、ナイルが「銀色の山」へと続く記述を残しましたが、自ら探検はしていません。

プトレマイオス朝時代になると、紅海経由の交易や探検により、東アフリカ沿岸部やその内陸に関する知識が少しずつ深まりました。紅海沿岸から見える山脈のどこかにナイルの源流がある可能性が認識され始めました。さらに、ローマ皇帝ネロの治世下では、純粋な探求心から百人隊長がナイル上流を探検し、セネカの記録によれば「恐ろしい勢いで水が落下する二つの岩」まで到達したとされます。

こうした断片的な情報に加え、特筆すべきはディオゲネスという商人の報告です。彼はアフリカ東岸を航海中に漂流し、現在のタンザニア沿岸付近とされる交易地ラプタに漂着したと伝えられています。そこから内陸へ旅した彼は、ナイル川の源流を発見したと主張しました。彼の報告によれば、内陸には二つの大きな湖があり、その南には東西約800キロメートルにわたる巨大な山並みが見えたといいます。この山脈は白い万年雪を戴いており、現地の人々はこれを「月の山脈」と呼んでいました。月の山脈から流れ出るいくつかの川が二つの大湖に注ぎ込み、それぞれの湖から北へ流れ出す二本の川が合流してナイル川を形成するというのが、ディオゲネスの見聞録の内容でした。

紀元後1世紀後半から2世紀にかけて活動した地理学者プトレマイオスは、ディオゲネスの報告を信じ、その著書『地理学』に月の山脈の位置を記した地図を含めました。後代のアラビアの地理学者たちも、この報告を受け継ぎ、月の山脈をプトレマイオスが示した位置にあると見なしました。

近世以降の探索と比定

ナイル源流の探求は、近代に入っても続きました。18世紀後半、スコットランドの旅行者ジェームズ・ブルースは、アビシニア（現在のエチオピア）に滞在し、青ナイル川の源流を探検しました。タナ湖に注ぐ小アバイ川を遡り、ギシュ・アバイという集落にたどり着いたブルースは、その付近の山々が「新月のような二つの半円形」であることから、古代人が「月の山脈」と呼んだ場所にふさわしいと考えました。

19世紀中頃には、イギリスの探検家たちが白ナイル川の源流を求めてアフリカ内陸の大湖地方を探検しました。ジョン・ハニング・スピークはヴィクトリア湖を白ナイルの源流と見なしましたが、彼らの探検隊の誰もが、ディオゲネスの報告にあるような白い雪を戴く巨大な山脈を直接目撃することはありませんでした。

しかし、1889年、ヘンリー・モートン・スタンリーが探検中に目撃した山脈は、その頂上に氷冠を戴いており、プトレマイオスの記述した月の山脈の特徴とよく合致しました。この山脈は後にルウェンゾリ山地として知られるようになります。ルウェンゾリ山地は標高が高く、万年雪を戴いていますが、厚い雲に覆われることが多いため、それ以前のヨーロッパ人探検家たちには見えにくかったと考えられています。

スタンリーによるルウェンゾリ山地の発見は、月の山脈の実在を示唆するものと捉えられましたが、多くの現代の学者は、2世紀のディオゲネスが本当にルウェンゾリ山地まで到達できたのか疑問視しています。もし彼がルウェンゾリまで行っていたなら、ヴィクトリア・ナイルのような大きな川を渡河する必要があったはずですが、プトレマイオスの記録にはそのような困難が記されていません。このため、ディオゲネスの報告は、プトレマイオス自身が示唆したように、船乗りの作り話であった可能性も指摘されています。

現代の比定説と文化への影響

現代においても、「月の山脈」が具体的にどの地理的位置を指すのかについては議論があります。最も有力な候補の一つは、スタンリーが目撃したルウェンゾリ山地（現在のウガンダとコンゴ民主共和国の国境付近）ですが、他の説も存在します。たとえば、キリマンジャロ山や、エチオピアのアムハラ地方にあるアブナ・ユースフ山を「月の山脈」に比定する見解も提唱されています。

「月の山脈」は、地理的な謎であると同時に、人々の想像力を掻き立てる存在であり続けています。エドガー・アラン・ポーやオスカー・ワイルドといった作家の文学作品、手塚治虫の漫画『ジャングル大帝』、アフリカ大陸を扱ったドキュメンタリー、グレイトフル・デッドの楽曲など、様々な文化作品の中で言及され、あるいは舞台として描かれています。

古代の伝説に端を発し、幾世紀にもわたる探検家たちの挑戦と地理学的な論争を経て、「月の山脈」は単なる伝説上の存在に留まらず、アフリカの探求史において重要な役割を果たした概念であり、今なお文化的なインスピレーションの源となっています。

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