李遠哲

李 遠哲（り えんてつ、Yuan Tseh Lee、1936年11月19日 - ）は、台湾生まれの著名な化学者です。特に、化学反応がどのように進行するかを極めて詳細に追跡する「化学動力学」という分野において、画期的な研究手法を開発し、その貢献が認められて1986年にノーベル化学賞を受賞しました。これは、台湾出身者として初のノーベル賞受賞という歴史的な快挙でした。彼は、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校で長年にわたり教鞭を執り、現在は同大学の名誉教授を務めるほか、日本の名古屋大学高等研究院名誉院長など、世界各地の学術機関で要職を歴任しています。

李氏の研究は、原子や分子が衝突して化学反応が起こる瞬間の「素過程」を直接観測することを可能にした点にあります。彼が開発・発展させた「交差分子線法」では、反応物となる分子をそれぞれ細く絞ったビーム（分子線）として用意し、これらを真空中で直角に交差させます。衝突によって生成した新しい分子を、様々な角度や速度で検出することで、反応の遷移状態やエネルギーの分配など、反応経路に関する詳細な情報を得ることができます。この手法により、理論だけでは予測困難だった化学反応の微細なメカニズムが実験的に解明されるようになり、物理化学の研究に新たな時代を切り開きました。この卓越した業績が高く評価され、1986年のノーベル化学賞へとつながったのです。

李遠哲氏は、1936年に日本統治下の台湾、新竹市で生まれました。父親は画家の李澤藩、母親は幼稚園長でした。幼少期は日本語が主な言語でしたが、第二次世界大戦終結後に中国語や台湾語を学びました。中等学校時代に肺の病気を患い療養する中で、科学への関心を深め、特にキュリー夫人の伝記に感銘を受け、化学者を志すようになります。台湾大学化学工学科に入学後、化学科に編入し、物理化学の世界に引き込まれました。当時は中国語の科学文献が限られていたため、岩波新書をはじめとする日本語の書籍を熱心に読んだといいます。大学卒業後は清華大学大学院に進み、放射化学を専攻。日本の濱口博教授の指導の下、北投温泉の北投石に含まれる放射性同位体の研究で修士号を取得しました。

1962年、李氏はアメリカに渡り、カリフォルニア大学バークレー校の大学院で学び始めます。ここでは光化学の研究に取り組み、1965年に博士号（Ph.D.）を取得しました。指導教授はブルース・マハンでした。その後、ハーバード大学での博士研究員を経て、シカゴ大学の助教授、さらに教授を務め、この時期に分子線の交差衝突を利用した化学反応動力学の研究を本格化させます。彼が開発した高精度な装置は、反応生成物の角度分布を詳細に測定することを可能にし、化学反応の遷移状態やエネルギー移動に関する画期的な知見をもたらしました。1974年には、かつて学んだカリフォルニア大学バークレー校の化学科教授として迎え入れられました。

分子線法による化学反応素過程の研究における顕著な功績により、李氏は1986年にノーベル化学賞を受賞しました。同年にはピーター・デバイ賞やアメリカ国家科学賞も受賞するなど、その業績は国際的に高く評価されました。彼はその後も世界の学術界で尊敬を集め、アメリカ芸術科学アカデミーフェロー、米国科学アカデミー会員、中央研究院院士など、数多くの著名な科学アカデミーの会員に選出されています。日本においても、名古屋大学や早稲田大学から名誉博士号を授与され、2007年には日本学士院の客員となりました。

1994年、李氏はアメリカ国籍を放棄して台湾に帰国し、中華民国の中央研究院院長に就任しました。2006年まで12年間にわたりその職を務め、台湾の科学技術振興に尽力しました。また、彼は社会や政治に対しても積極的な発言を行い、2000年の中華民国総統選挙では特定の候補者を支持し、選挙結果に影響を与えたとも報じられました。さらに、2004年にはAPEC会議で台湾代表として出席し、各国の首脳と交流するなど、国際舞台でも存在感を示しました。

李遠哲氏の科学者としての卓越した業績は、化学反応をミクロな視点から理解する道を切り開き、物理化学の発展に不可欠な基盤を築きました。その活躍は学術界にとどまらず、台湾の科学技術政策や国際交流においても重要な役割を果たしています。彼の生涯は、科学への深い情熱と、社会への貢献を目指す姿勢に貫かれています。

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