栃木雑貨商一家殺害事件

1953年（昭和28年）3月17日、栃木県南東部の芳賀郡市羽村（現在の市貝町）で、地域に住む雑貨商の家族3名と住み込みの使用人1名が、何者かによって命を奪われ、家の中の金品が持ち去られるという凄惨な事件が発生しました。

被害者のうち女性二名には、性的暴行を受けた痕跡も見つかり、さらに現場からは二種類異なる精液が検出されたことから、当初捜査当局は複数の犯人による犯行の可能性が高いとみて捜査を進めましたが、有力な手がかりは掴めずにいました。

事件発生からおよそ二ヶ月が経過した頃、事態は急展開を迎えます。現場からほど近い場所に住んでいた当時23歳の男性Kが逮捕されたのです。逮捕のきっかけは、遠く離れた東京に住む彼の妹が、被害品の一つである腕時計を所持していたことでした。

逮捕後、Kは犯行を自供します。彼は事件が単独犯によるものだと主張し、その動機として、事件前日に婚約したことと、母親が白内障を患い失明の危機に瀕しており、その治療費など資金繰りに窮した末の犯行であったと供述しました。

起訴事実を認めていたため、裁判は比較的短期間で進行しました。第一審は1953年 11月25日に死刑判決を下し、続く控訴審でも1954年 9月29日に同じく死刑判決が維持されました。Kは最高裁判所へ上告しましたが、死刑判決が覆る可能性は低い状況でした。

しかし、この時期にKは、自身の兄から「お前のせいで母親が周囲からいじめられ、ひどく苦しんでいる」という内容の手紙を受け取ります。母親を深く案じたKは、脱獄を決意するに至ります。彼は背表紙の内側に隠された金切り鋸が差し入れられた本を受け取り、それを用いて独房の鉄格子を切断することに成功します。そして1955年 5月11日の夜、「本当に申し訳ありませんが、しばらくの間、命を助けてください」という趣旨の書き置きを残して、収監されていた東京拘置所から姿を消しました。

Kは東北本線の列車に無賃乗車し、自身の故郷へと向かいました。警察当局は行方を追いましたが、彼の目的地は明らかでした。脱獄から11日目のこと、故郷の実家近くで張り込んでいた捜査員によって、疲労困憊していたKは身柄を再び拘束されました。その際、Kは捜査員に対し「頼む、一目だけでも母親に会わせてくれ」と切願しました。この願いだけは叶えられ、大勢の警察官や新聞記者が見守る中で、Kは家の中で母親とわずか1分足らずの再会を果たしました。これが、母と子の今生の別れとなりました。

この脱獄事件は社会に大きな波紋を広げ、東京拘置所の所長が職を辞するなど、関係者が処分を受ける事態となりました。また、拘置所の鉄格子が金切り鋸で容易に切断できる鋳鉄製から、より強固な鋼鉄製に交換されるなど、施設の安全性が見直される契機ともなりました。

Kが再び身柄を拘束された後、最高裁判所での審理は異例とも言える速さで進められました。拘置所に戻されて間もない1955年 6月28日、最高裁はKの上告を棄却し、死刑判決が確定しました。当時の東京拘置所には死刑執行施設がなかったため、Kは同年11月21日に死刑執行施設を備える宮城県の宮城刑務所へ移送され、その翌日の11月22日に死刑が執行されました。

死刑確定から執行までの期間が短かったことについて、作家の大塚公子氏は、再び逃亡する可能性を懸念し、急いで刑を執行したとの印象を受けるのは無理もないと述べています。この事件は、死刑確定から執行までの期間が短い事例として、また死刑判決を受けた者が脱獄した事件としても、日本の犯罪史において特異な位置を占めています。

なお、Kの親族は最後まで彼の助命や脱獄を諦めなかったようで、死刑確定直後の7月末には、Kの妹（当時19歳）が金切り鋸と安全剃刀を石鹸に隠して差し入れようとして逮捕されています。さらに、その後の家宅捜索によって、別の妹（当時24歳）も逮捕されるという出来事がありました。

参考文献

事件・犯罪研究会村野薫『明治・大正・昭和・平成事件・犯罪大事典』東京法経学院出版、2002年。
大塚公子『あの死刑囚最後の瞬間』ライブ出版、1992年。
大塚公子『死刑囚の最後の瞬間』角川文庫、1996年。
別冊宝島『死刑囚最後の1時間』

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