樋口泰人

日本の映画評論家、そして音楽評論家としても知られる樋口泰人氏は、1957年に山梨県で生を受けました。慶應義塾大学経済学部を中途退学後、批評の世界に足を踏み入れます。

初期の活動としては、かつて日本の映画批評において重要な役割を果たした雑誌『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』で編集委員を務め、その批評眼を磨きました。この経験が、その後の多角的な活動の基盤となったと言えるでしょう。

1998年、樋口氏は自らが主宰する組織、boid（ボイド）を設立しました。boidは、単なる評論活動にとどまらず、映画や音楽に関連するビデオ、単行本、CDなどの企画、製作、そして販売までを手がける活動体です。批評的な視点を持ちながら、自らコンテンツを生み出し、流通させるという実践的なアプローチは、氏の活動の大きな特色の一つです。

樋口氏の活動で特に多くの注目を集めたのが、「爆音上映」という独自の試みです。2004年、東京・吉祥寺にあった名画座、バウスシアターにてこの企画を開始しました。これは、単に音量を上げるのではなく、映画作品が持つ音響効果を最大限に引き出し、観客が音を身体全体で感じ、作品世界に深く没入できるような、これまでにない鑑賞体験を提供することを目的としていました。作品ごとに音響設定を細やかに調整し、劇場空間全体を音で満たす上映は、観客に大きな衝撃と感動を与え、たちまち評判となりました。この成功を基に、2008年には「爆音映画祭」を正式にスタートさせます。バウスシアター閉館後も継続されているこの映画祭は、全国各地の映画館を巡回し、様々なジャンルの作品を「爆音」で上映することで、多くの映画ファンに支持される一大イベントへと成長しました。これは、氏の映画への深い愛情と、それを独自の形で表現し、共有しようとする強い意志の表れと言えます。

評論家としての著作活動も精力的に行っています。主な単著としては、映画とロックンロールという二つの文化がアメリカでどのように相互作用し、あるいは対立してきたかを論じた『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』（青土社、1999年）があります。また、自身の爆音上映の軌跡や理念を詳細に綴った『映画は爆音でささやく 99-09』（boid、2010年）は、その実践活動の背景にある思考を知る上で貴重な一冊です。これらの著作からは、氏が単に映像を分析するだけでなく、音響や音楽、さらには鑑賞環境といった複合的な要素から映画を捉えようとする姿勢が明確に見て取れます。

さらに、編著や監修といった形で、特定の作家やテーマを深く掘り下げる書籍も多数手がけています。アンドレイ・タルコフスキーに関する『タルコフスキー・アット・ワーク』（編、芳賀書店、1989年）を始め、ヴィム・ヴェンダース（監修、カルチュア・パブリッシャーズ、1997年）、カンヌ国際映画祭（編、アスペクト、1998年）、ウディ・アレン（都筑はじめと監修、カルチュア・パブリッシャーズ、1998年）、アメリカ映画の喪失感を扱った『ロスト・イン・アメリカ』（稲川方人と編、デジタルハリウッド出版局、2000年）、ジョン・カーペンター（山崎圭司と編、boid、2018年）、そして近年の青山真治に関する二冊、『青山真治アンフィニッシュドワークス』（松村正人と編、河出書房新社、2023年）と『青山真治クロニクルズ』（編、リトルモア、2023年）など、その対象は広範にわたります。これらの共編著は、日本の映画研究や特定の監督・作品の紹介において重要な資料となっています。

樋口泰人氏は、鋭敏な批評家として、そしてboidを通じたプロデューサー・ディストリビューターとして、さらには爆音映画祭の企画・実行者として、様々な角度から日本の映画文化に貢献しています。批評と実践という二つの側面から、映画の可能性を追求し、観客に新たな体験を提示し続ける、稀有な存在と言えるでしょう。

参照元情報：
* 樋口泰人 経歴・著作リスト

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