櫻井忠温

櫻井忠温は、明治から昭和にかけて活躍した日本の陸軍軍人であり、同時に作家としても知られる人物です。明治12年（1879年）、愛媛県松山城下の士族の家に三男として生を受けました。松山中学校を卒業後、一旦は神戸税関に勤務しますが、後に軍人の道を志し、明治34年（1901年）に陸軍士官学校（13期）を卒業しました。

軍歴を重ねる中、日露戦争が勃発すると、歩兵第22連隊の旗手として従軍。乃木希典将軍率いる部隊の一員として激戦地・旅順の攻防戦に参加しました。この過酷な戦場で、彼は凄惨な体験をします。全身に八発の銃弾と無数の刀傷を受け、さらには右手の切断という、到底生還が望めないほどの重傷を負いました。その傷の深さから、一時は戦死者と誤認され、火葬場へ運ばれる途中でようやく生存が確認されたという、まさに九死に一生を得る壮絶な経験でした。

傷の癒えない療養生活を送る中、櫻井忠温は自身の筆によってこの戦場の現実、兵士たちの感情や極限状態での精神を描き出しました。こうして生まれた実戦記録『肉弾』は、明治39年（1906年）に刊行されるやいなや、日本国内で爆発的な反響を巻き起こし、瞬く間に大ベストセラーとなりました。この作品は、それまでの観念的な戦記とは一線を画す、兵士の内面に迫る描写で、近代戦記文学の黎明を告げる記念碑的な作品と位置づけられています。

『肉弾』の評価は国内に留まらず、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、ロシア、中国など、実に十五カ国語に翻訳され、世界的な規模で読まれることとなりました。その影響力の大きさを示すエピソードとして、明治天皇からの特別拝謁という破格の栄誉を賜ったこと、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がこの本をドイツ全軍の必読書として推奨したこと、そして日露戦争終結に尽力したアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが「英雄的行為を学ぶことは青年の精神を鼓舞する」と賞賛する書簡を寄せたことなどが伝えられています。

軍人としてのキャリアも順調に進み、大正13年（1924年）以降は陸軍省新聞班長などを務め、昭和5年（1930年）には陸軍少将に昇進し、その後退役しました。軍務と並行して作家活動も精力的に続け、『銃後』、『草に祈る』、『黒煉瓦の家』、『大将白川』、『将軍乃木』、『煙幕』など多くの作品を発表しました。晩年には自身の半生を振り返った自伝『哀しきものの記録』も著しています。また、少年時代には画家を志し、四条派の絵師に学んだ経験もあり、その画技も非常に優れており、画集も出版しています。

昭和7年（1932年）には、来日を控えていたチャールズ・チャップリンの身辺で不穏な動きを察知し、親交のあったチャップリンの秘書に対し、滞在中の安全策として右派勢力を懐柔する意味合いで皇居への遥拝を助言したというエピソードも残されています。

太平洋戦争終結後、その時期の活動を理由に昭和22年（1947年）に公職追放を受けますが、昭和27年（1952年）には解除されました。長く東京で暮らしていましたが、晩年になって故郷の松山へ帰郷。昭和37年（1962年）には、夏目漱石の小説『坊っちゃん』にちなんだ松山坊っちゃん会を設立し、初代名誉会長に就任するなど、郷里の文化振興にも尽力しました。実は櫻井忠温は、夏目漱石が松山に教師として赴任していた時期に教え子であり、明治36年（1903年）に「ホトトギス」誌に掲載された漱石の代表作『坊っちゃん』の挿絵を描いたことでも知られています。昭和39年（1964年）には愛媛県教育文化賞を受賞しています。

昭和40年（1965年）9月17日、松山市内の病院で86年の生涯を閉じました。その墓所は東京都府中市にある多磨霊園にあります。壮絶な戦場体験から生まれた一冊の書が、文学史のみならず、国内外に大きな影響を与えた櫻井忠温は、軍人、作家、そして文化人として、多岐にわたる足跡を残した人物と言えるでしょう。

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