武州公秘話

武州公秘話：奇矯な武士の生涯と、未完の物語

谷崎潤一郎の長編小説『武州公秘話』は、1931年から1932年にかけて『新青年』誌に連載されました。当初は1年間の連載が予定されていましたが、完結せず第12回で中断、その後、加筆修正を経て1935年に単行本として刊行されました。単行本には、谷崎自身による漢文の序文と、正宗白鳥による跋文が添えられています。

本作は戦国時代を舞台に、桐生武蔵守輝勝という、型破りで奇矯な行動を繰り返す武士の生涯を描いています。輝勝は、法師丸という幼名で筑摩氏の居城・牡鹿城に人質として預けられていました。薬師寺家の攻撃を受けた牡鹿城で、輝勝は敵の首を処理する作業を目撃します。そこで見た鼻を削ぎ取られた首の異様な姿は、輝勝の心に深い衝撃を与えます。

やがて輝勝は、ある晩、城を抜け出し、敵方の本陣に潜入。薬師寺政高という大将の首を討ち取り、さらにその鼻を削ぎ落とすという大胆不敵な行動に出ます。この事件の後、薬師寺軍は病を理由に撤退し、牡鹿城は平和を取り戻します。しかし、その後、筑摩氏の若殿である則重が薬師寺家の娘・桔梗の方と結婚したことをきっかけに、則重は鼻を狙われるという不可解な事態に巻き込まれていきます。

輝勝は、この一連の出来事の根源が自分にあると悟り、桔梗の方の願いを叶えるべく、水面下で陰謀を企て始めるのです。物語は、輝勝の予測不可能な行動と、彼を取り巻く複雑な人間関係、そして戦国の世の混沌とした状況を鮮やかに描き出しています。

『武州公秘話』は、未完の作品として知られています。谷崎自身も続編の執筆を予告していましたが、結局それは実現しませんでした。この未完という点が、作品の持つ独特の雰囲気や、読者の想像力を掻き立てる要因の一つとなっています。

作品の語り口は、しばしば映画監督アルフレッド・ヒチコックの作風と比較されます。緻密に構成されたプロット、サスペンスフルな展開、そして読者の心理を巧みに操る語り口は、まさにヒチコック的な要素と言えるでしょう。

また、『武州公秘話』は1955年に歌舞伎として上演されており、円地文子が脚色を担当しました。小説の持つ独特の世界観が、舞台という形で新たな表現を獲得したと言えるでしょう。

『武州公秘話』は、未完の作品であるにも関わらず、谷崎潤一郎の代表作の一つとして高い評価を得ています。奇矯な主人公、複雑な人間関係、そして戦国の世の混沌とした状況が、独特の雰囲気と緊張感をもって描かれており、読者に深い印象を与えます。その魅力は、単なる歴史小説の枠を超え、人間の業や運命といった普遍的なテーマを問いかけるものとなっています。小説の背後にある、谷崎潤一郎自身の思想や、当時の社会情勢なども読み解くことで、より深い理解が得られるでしょう。さらに、連載中断という経緯や、歌舞伎化された事実など、作品を取り巻く様々なエピソードも、本作の魅力を高める要素となっています。

参考文献：
笠原伸夫 編『新潮日本文学アルバム7 谷崎潤一郎』新潮社、1985年
『文藝別冊 谷崎潤一郎――没後五十年、文学の奇蹟』河出書房新社、2015年
佐伯彰一「解説」中公文庫『武州公秘話・聞書抄』
谷崎潤一郎『谷崎潤一郎全集』16巻、中央公論新社、2016年

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