歴史的知識にもとづく演奏

歴史的知識にもとづく演奏（Historically Informed Performance: HIP）

歴史的知識にもとづく演奏（英: Historically Informed Performance、略称: HIP）とは、音楽作品が作曲された当時の歴史的状況に関する知識を基に、その時代の楽器、演奏技法、慣習などを可能な限り再現することで、作曲家が意図した、あるいは当時の聴衆が耳にしたであろう音楽の響きや表現を探求する演奏スタイルです。この演奏法は「ピリオド演奏」、その際に用いられる楽器は「ピリオド楽器」とも称されます。

歴史的背景と展開

HIPの源流は、主にバロック時代やそれ以前の音楽（古楽）を対象とした研究と演奏に遡ります。20世紀初頭には、古楽の復興を目指す動きが見られました。例えば、ピアニストのワンダ・ランドフスカは、当時ピアノで演奏されることが多かったバッハなどのバロック作品を、本来使われるべきであったチェンバロで演奏することを提唱し、楽器の復権に貢献しました。また、アーノルド・ドルメッチは、その著書「17・18世紀の演奏解釈」(1916年)を通じて、古楽演奏の理論的・思想的な基盤を築き、後のHIP発展に大きな影響を与えたと音楽学者のハリー・ハスケルによって評価されています。

1960年代になると、当時のモダンなクラシック音楽の演奏スタイル、特にロマン主義的な解釈への反動として、古楽運動がより活発化しました。この運動は、サーストン・ダートの「音楽の解釈」(1954年)やロバート・ドニンソンの「古楽の解釈」(1963年)といった著作によって思想的な根拠付けがなされ、特にオランダのアムステルダムがこの分野の中心地として発展しました。

当初は古楽に限定されていたHIPの研究と演奏は、その後、古典派、ロマン派、さらには近代の作品へと対象を広げていきました。これに伴い、研究対象となる楽器もチェンバロやリュートといった初期の古楽器に加え、フォルテピアノ、オフィクレイド、さらには18世紀から20世紀にかけて使用された様々な楽器へと拡大しました。また、楽譜に記されたテンポ指示の解釈や、作品が意図したオーケストラの編成人数など、音楽のあらゆる側面にわたる議論が行われるようになりました。

音楽学者のブルース・ヘインズは、著書「古楽の終焉」の中で、ルネサンス期から18世紀にかけての音楽を「修辞学的音楽」と呼び、フランス革命を契機とする「ロマン派革命」によって、それまで重要視されてきた音楽修辞法が軽視されるようになったと指摘するなど、HIPは音楽史や美学の観点からも深く掘り下げられています。

演奏スタイルの違い

20世紀初頭の演奏習慣、特にバッハやヘンデルのようなバロック時代の作品は、モダン楽器を用いた大編成のオーケストラで、ロマン派音楽のように重厚に演奏されることが一般的でした。こうした解釈は後に「ロマン主義的解釈」として、HIPの立場から批判される対象となりました。

ロマン派的な演奏スタイルは、ポルタメント（音高を滑らかにつなぐ奏法）、アゴーギク（楽譜の指示によらない微妙なテンポの変化）、テンポ・ルバート（テンポを一時的に揺らす奏法）といった表現技法を多用することが特徴です。代表的な指揮者としては、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーやウィレム・メンゲルベルクなどが挙げられます。

一方、20世紀初頭のモダン主義的な演奏スタイルは、ロマン派的な演奏に比べて、より安定したテンポで、ヴィブラートを強調しつつもレガート（音を途切れさせずに滑らかにつなぐこと）を重視する傾向がありました。アルトゥーロ・トスカニーニやヤッシャ・ハイフェッツなどがこのスタイルの代表例です。

これに対し、HIPの演奏、特にバロック時代の作品では、当時の図版などに基づいて、チェロやチェンバロといった据え置きが必要な楽器を除いて、奏者が立って演奏することが一般的とされています。また、ピリオド楽器特有の音色や響き、当時の奏法やアーティキュレーション（音の区切り方や発音）の慣習などが重視され、モダン楽器やモダンな演奏スタイルとは異なる響きが生まれます。

楽譜の解釈

過去の時代の楽譜に書かれた記号は、現代と同じ形をしていても、異なる意味を持っていたり、文脈によって解釈が変わったりすることが少なくありません。例えば、装飾音であるアッポジャトゥーラは、楽譜上の表記よりも長く、あるいは短く演奏されるべき場合がありました。また、19世紀末の楽譜に見られるヘアピン記号（クレッシェンドやデクレッシェンドを示す記号）が、単なる強弱だけでなく、アゴーギク（テンポの変化）をも同時に指示している可能性についてなど、楽譜の読み方自体が研究と議論の対象となっています。そのため、HIPにおいては、楽譜の記号を額面通りに受け取るだけでなく、当時の音楽理論書や演奏慣習に関する知識に基づいて総合的に判断することが求められます。

主要な演奏家・団体

HIPの分野で活躍する演奏家や演奏団体は多数存在します。代表的な人物として、指揮者ではフランソワ＝グザヴィエ・ロト、ジョルディ・サヴァール、クリストファー・ホグウッド、フランス・ブリュッヘン、ジョン・エリオット・ガーディナーなどが挙げられます。演奏団体では、レ・シエクル、ムジカ・アンティクヮ・ケルン、ラ・プティット・バンド、エスペリオンXXIなどが知られています。また、器楽奏者としては、ヴァイオリニストのファビオ・ビオンディ、モニカ・ハジェット、鍵盤楽器奏者のトン・コープマンなどが活躍しています。

HIPは単に過去の演奏を模倣するだけでなく、歴史的探求を通じて作品の本質に迫ろうとする試みであり、現代における音楽演奏の多様性を豊かにするとともに、音楽史全体の理解を深める上で重要な役割を果たしています。

関連項目

古楽
古楽器

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