毒入りオレンジ事件

「毒入りオレンジ事件」とは、1980年代初頭にプロボクシング界を揺るがせた一大スキャンダルである。週刊文春が協栄ボクシングジムを巡る数々の不正疑惑をスクープしたことから端を発し、中でも所属選手である具志堅用高や渡嘉敷勝男のタイトルマッチにおける対戦相手への薬物投与未遂疑惑が大きな注目を集めた。

事件の経緯と週刊文春の報道

事件は、週刊文春が協栄ジム会長・金平正紀氏による具志堅用高選手への過酷な扱いや報酬搾取に関する告発記事を掲載したことから始まった。その後の追加取材により、週刊文春は驚くべき情報を入手する。それは、具志堅選手や渡嘉敷選手の防衛戦において、対戦相手の選手に薬物を混ぜた飲食物を与えようとしたという疑惑だった。

特別取材班による半年間に及ぶ国内外での潜行取材を経て、週刊文春は1982年3月、この薬物疑惑に関する記事を複数週にわたって連載する。「金平会長が、対戦相手に薬物を混入したオレンジジュースなどを飲ませた」と具体的に報じた記事は、瞬く間に各メディアの知るところとなり、スポーツ紙はもちろん、一般紙やNHKのトップニュースでも取り上げられた。テレビのワイドショーも後追い報道を繰り広げ、ついには国会でも問題視されるほどの社会現象となった。単なるボクシング界の出来事としては異例の大騒動であった。

週刊文春の記事では、買収に応じて「毒入りオレンジジュース」を提供しようとしたというホテルの料理長の証言や、使用された薬物が筋弛緩剤である可能性、さらに報酬の搾取や恐喝といったジムの運営に関する様々な不正についても詳細に報じられた。しかし、金平会長は一貫して疑惑を否定し、関係者の証言にも食い違いが見られたため、事件の真相は完全に解明されるには至らなかった。

この事件の影響は大きく、金平会長は1982年にボクシング界のライセンスを無期限剥奪される処分を受けた（後に解除され現場復帰している）。また、具志堅選手の引退セレモニーが中止になるなど、関係者にも少なからぬ影響が出た。

具体的な工作未遂疑惑：渡嘉敷選手の試合を巡って

特に詳細に報じられたのは、渡嘉敷勝男選手の世界タイトル挑戦者決定戦と銘打たれた試合での工作未遂疑惑である。1981年3月、具志堅選手がタイトルを失った後、協栄ジムは後継となる世界挑戦者を模索していた。当時、日本ランキング1位ながら世界的には無名だった渡嘉敷選手に白羽の矢が立ち、当時OPBF東洋太平洋チャンピオンでWBA世界3位の金龍鉉選手（韓国）との対戦が組まれた。

試合のため来日した金選手らが宿泊したホテルで、協栄ジム関係者による工作が行われたとされる。当初は、減量中の金選手がレモンを愛飲していることを知り、レモンに薬物を注入して渡そうとしたが、ジムスタッフの一人が回収したため未遂に終わった。翌日には、十数個のオレンジを購入し、そのうち6個に薬物を仕込んでホテルのフロントに預け、相手陣営に渡すよう依頼したとされる。このオレンジを巡り、試合後に金選手のマネージャーが「試合がおかしい、問題にする！」と激しく抗議したことが、不正疑惑発覚のきっかけとなったと言われている。この他にも、チューインガムに薬物を仕込むといった工作も試みられたとされる。

結果的に渡嘉敷選手はこの試合に判定勝ちを収め、世界ランキング入りを果たしたが、この工作未遂疑惑は後に週刊文春で大きく報じられることとなった。

明るみに出たその他の疑惑

薬物疑惑以外にも、週刊文春の報道やその後の取材で協栄ジムに関する様々な不正行為が指摘された。

選手の酷使と搾取: 具志堅選手が引退を申し出たにもかかわらず防衛戦を強行させたり、過大な防衛回数を強要したりした疑惑。また、選挙応援への無理強いも報じられた。収入面では、タイトルマッチの巨額な収益や、具志堅選手の広告出演料、謝礼などから多額の報酬を不当に搾取（ピンハネ）していたとされた。
恐喝: ジムに隣接する土地に保育園が建設される際、景観を理由に建設を妨害し、最終的に「看板料」などの名目で金銭を要求し、600万円を受け取って和解した件。また、別の事業への関与を巡り、「総会屋を連れてくる」と脅迫して1500万円を喝取したとされる件も報じられた。

名誉毀損裁判とその後の影響

一連の報道に対し、金平会長は週刊文春の発行元である文藝春秋社を相手取り、名誉毀損で提訴した。裁判では、週刊文春の記事内容がおおむね事実であると認められたものの、金平会長の顔に関する侮辱的な表現が名誉毀損に当たると判断され、文藝春秋社側に賠償金の支払いが命じられた（後に和解）。

事件後、金平会長はボクシング界から一時追放されたが、後に復帰を果たしている。金平氏の長男である金平桂一郎氏は、当時の騒動の大きさを振り返りつつ、父が事件に関連する記事を全て保管していたこと、そしてこの騒動が結果的にボクシング界の体質改善につながったとの見解を示している。

「毒入りオレンジ事件」は、プロボクシングという人気スポーツの華やかな舞台の裏側で起きていた深刻な問題を世に知らしめ、ボクシング界のみならず社会全体に大きな波紋を広げた出来事として記憶されている。

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