気球に乗って五週間

ジュール・ヴェルヌが1863年に刊行した長編冒険小説です。原題は『Cinq semaines en ballon』で、「三人のイギリス人によるアフリカ探検の旅、気球に乗って五週間」という意味が冠されています。当時34歳だったヴェルヌにとって、本作は作家としての地位を確立する記念碑的な作品となりました。

物語の舞台は1862年のアフリカ大陸。主人公は、卓越した探検家であり発明家でもあるサミュエル・ファーガソン博士です。彼は、当時の人々にとって最大の謎の一つであったナイル川の源流をはじめ、アフリカ大陸内部の未踏の地を踏破するという野心的な計画を立てます。そのために彼が開発したのが、画期的な性能を持つ操縦可能な気球「ビクトリア号」でした。この気球は、内部のガスを加熱・冷却することで浮力を調整できる特殊な装置を備えており、バラスト（重り）を頻繁に捨てる必要がなく、長距離飛行を可能にしました。さらに、二重構造の気球皮膜を持つことで、万が一の損傷にも対応できる設計がなされていました。

ファーガソン博士の危険な探検に同行するのは、二人の頼れる仲間です。一人は、彼の古くからの友人であり、カービン銃の名手であるディック・ケネディ。もう一人は、博士に長年仕える忠実で楽天的な従僕、ジョー（本名ジョセフ・ウィルソン）です。当初、危険を憂慮して難色を示していたディックも、ファーガソン博士の熱意に根気強く説得され、最終的に参加を決意します。

1862年4月18日、一行はアフリカ大陸東岸沖のクンベニ島から「ビクトリア号」に乗り込み、西へ向かう壮大な旅を開始します。彼らは高度を巧みに操りながら、上空から広大なアフリカの景色を観察し、その多様な動植物や知られざる地理を記録していきます。探検のルートは計算され尽くしており、ヴィクトリア湖、ナイル川の源流地帯、チャド湖、サハラ砂漠、伝説の都トンブクトゥ、ニジェール川流域のジャングルといった主要な地点を次々と通過していきます。

しかし、空の旅は常に順風満帆ではありません。一行は様々な困難や危険に直面します。現地の部族に神と間違えられたり、巨大な象に気球のロープを掴まれ引きずられたり、人食い人種に捕らえられそうになっていたフランス人宣教師を間一髪で救出したりします。また、乾燥地帯では喉の渇きに苦しめられ、空からはハゲタカの襲撃を受け、地上では奴隷狩りの追跡者から銃撃されるといった危機も訪れます。

さらに、気球自体の問題も発生します。旅の途中で猛禽類に気球の外殻が損傷され、二重構造の外皮を取り外さざるを得なくなります。残った内皮も旅が進むにつれて少しずつガスが漏れるようになり、浮力を保つために、搭載していた荷物や装備品を次々と投棄せざるを得なくなります。従僕のジョーや、食料であるペミカン、旅の途中で集めた金鉱石、さらには気球を支えるバスケットまでもが、軽い気球を維持するために手放されていきます。旅の最終盤には、セネガル川沿いのグイナ滝を越えるため、「ビクトリア号」は搭載技術を応用して熱気球へと改造されます。多くの苦難と冒険を乗り越え、一行はついに1862年5月24日、アフリカ大陸の西海岸に到着し、五週間の探検を無事終えるのでした。

本作の誕生には、当時の著名な写真家であり、巨大な熱気球「巨人号」の建造を計画していたナダールとの交流が影響したとする説がありますが、ナダールの計画は本作の刊行後のことであり、その関連性は定かではありません。むしろ、本作の成功がヴェルヌの名を一躍有名にし、その後の彼の作家人生を決定づけたと言えるでしょう。ヴェルヌは本作の成功により、出版社ピエール＝ジュール・エッツェルとの長期的な協力関係を築き、生涯にわたる「驚異の旅」シリーズへと繋がっていきます。初版は2,000部でしたが瞬く間に完売し、その後も重版が繰り返され、ヴェルヌ没後までに挿絵なし版だけでも76,000部を売り上げる大ベストセラーとなりました。

本作が刊行された1860年代は、現実世界でもナイル川源流探検が活発に行われていた時期です。特にイギリスの探検家ジョン・ハニング・スピークが1862年にナイル源流を発見した探検と小説の筋書きが時期的に重なることは、当時の読者の興味を強く惹きつけました。フィクションと現実の探検が並行して展開されたことは、作品のリアリティを高める要因となりました。また、従僕ジョーのキャラクターは、当時のフランスのジャーナリスト、フェリックス・デュケスネルがモデルになったとされています。

『気球に乗って五週間』は、科学的な空想、地理的知識、そしてスリリングな冒険が見事に融合した作品として、ヴェルヌの「驚異の旅」シリーズの出発点となり、多くの読者を魅了し続けています。日本でも明治時代には早くも翻訳され、様々な版が出版されています。また、映像化も行われ、ヴェルヌ作品の持つ普遍的な魅力が示されています。

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