煤煙 (小説)

『煤煙』：心中未遂事件と告白小説

森田草平の長編小説『煤煙』は、1909年1月から5月にかけて『東京朝日新聞』に連載され、大きな話題を呼んだ作品です。著者の森田草平自身が経験した、平塚らいてう（当時平塚明子）との心中未遂事件を題材とした告白小説であり、彼の代表作として、近代日本の文学史に重要な位置を占めています。

事件の発端と漱石の関与

1908年、森田草平は女学校教師として勤める中で、生徒であった平塚明子と恋に落ちます。既に妻子があった森田は、明子と栃木県塩原へ駆け落ち、心中を試みますが失敗に終わります。この醜聞は世間の注目を集め、大きな波紋を広げました。

この事件を小説として発表することを提案したのは、当時『東京朝日新聞』の文芸欄を担当していた夏目漱石でした。漱石の助言と平塚家の許可を得て、森田は事件を基にした小説の執筆を始め、連載へと至ります。小説のタイトルである「煤煙」は、主人公が東京砲兵工廠の煙突から立ち上る煙を眺める場面から着想を得たものです。

小説『煤煙』の内容

『煤煙』は、主人公の小島要吉と、モデルが平塚明子である真鍋朋子の恋愛を描いています。要吉は、田舎の妻子を置いて都会で生活しており、朋子との出会いをきっかけに、心の葛藤と激しい恋愛に突き進んでいきます。朋子は、強い個性と、死への執着を持つ女性として描かれています。

物語は、要吉の故郷への帰省、朋子との出会い、そして激しい恋愛、そして、塩原での心中未遂と、その後の心の揺らぎを丁寧に追いかけます。二人は何度も死を意識した行動に出かけ、その中で、お互いの感情の深まりと、同時に、行き場のない虚無感といった複雑な感情が交錯していきます。

物語のクライマックスである塩原での心中未遂は、雪深い尾花峠で迎えられます。死を目前にして、要吉は死を思いとどまり、二人の関係は新たな局面を迎えますが、その結末は読後感に強い余韻を残します。

漱石との評価の相違

漱石は、森田が描いた明子像（小説における朋子）に満足せず、自身の連載小説『それから』の中で『煤煙』を批判的に評する場面を盛り込んでいます。一方で、漱石の『三四郎』に登場する里見美禰子は、漱石が理想とする明子像を反映していると言われています。このことは、漱石と森田の異なる視点、そして、作家としての個性の違いを物語っています。

らいてうの反応とその後

『煤煙』の連載終了後、平塚らいてうは自身の意見を発表しました。彼女は小説の主人公二人に共感できないと述べ、森田が自身の理解を深めていないと批判しています。その後、自伝の中でこの事件について触れ、改めて自身の立場を表明しています。

出版と研究

『煤煙』は1932年に岩波文庫に収録され、その後も幾度となく刊行されています。また、近年では詳細な注釈を付した研究書も出版され、作品への関心の高さが伺えます。

まとめ

『煤煙』は、単なる恋愛小説ではなく、近代日本の社会状況、恋愛観、そして女性の生き方といった多様なテーマを織り交ぜた作品です。心中未遂事件という衝撃的な事実をベースに、人間の心の深淵を描き出した森田草平の才能と、時代背景を理解することで、より深く作品を楽しむことができるでしょう。漱石との関係、らいてうとの複雑な関係性、そして作品への様々な解釈を含め、現代においても読み継がれる理由を秘めた、重要な文学作品です。

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