猟犬を伴う皇帝カール5世
『猟犬を伴う皇帝カール5世』は、ルネサンス期のヴェネツィア派を代表する巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオが、1533年に手掛けた油彩の肖像画です。描かれているのは、神聖ローマ皇帝カール5世であり、ティツィアーノの肖像画家としての力量を示す重要な作品として知られています。
この作品は、もともとオーストリアの画家ヤーコプ・ザイゼンエッガーが描いた肖像画の複製を制作するために依頼されました。しかし、ティツィアーノは原作をはるかに凌駕する完成度で作品を描き上げました。彼は、1529年から1530年（または1532年）にかけてもカール5世の肖像画を描いており、この作品によってカール5世からの画家としての評価を確固たるものにしました。現在、この絵画はマドリードのプラド美術館に所蔵されています。
カール5世とティツィアーノの関係は1529年にまで遡ります。この年、マントヴァ侯爵フェデリーコ2世・ゴンザーガが、カール5世の関心を得るためにティツィアーノを招聘し、カール5世の最初の肖像画が描かれました。この作品は現存していませんが、甲冑姿の半身像であったことが、ジョヴァンニ・ブリートの木版画やピーテル・パウル・ルーベンスの模写からわかっています。その後、1530年にカール5世はボローニャで戴冠し、1532年には教皇との会見のためにマントヴァに滞在しました。この時、最初の肖像画が制作されたとする見方もあります。そして、本作品は、その翌年にボローニャで皇帝と再会した際に依頼されたものです。
一方、ヤーコプ・ザイゼンエッガーは1530年から1532年にかけて、皇帝の全身肖像画を5枚制作しています。ザイゼンエッガーは、1530年にカール5世の依頼でマヨルカ島のラ・アルムダイナ王宮に所蔵される最初の全身像を制作。1531年には、カール5世の兄弟フェルディナンドの依頼で皇帝の肖像画をプラハで2枚、さらに1532年にはボローニャとラティスボンでそれぞれ制作しています。
絵画に描かれているカール5世は、銀糸の刺繍が施されたブロケードの胴着と黒い毛皮付きの外套を身にまとい、黒い帽子を被り、白い靴を履いています。また、イギリス産の白い雌の猟犬を伴っています。この姿は、1532年11月1日にバッサーノを訪問した際の服装と同様です。この宮廷的な要素と軍事的な要素の組み合わせは、洗練さと権力を併せ持つ皇帝のイメージを表現し、同時にイタリアに対するカール5世の支配を宣言しています。猟犬の描写は、ザイゼンエッガーの絵画の方が実物に忠実であるとされますが、ティツィアーノの肖像画はザイゼンエッガーのそれを凌駕しています。
両者の肖像画は類似点はあるものの、皇帝のイメージは大きく異なっています。ザイゼンエッガーが、同時代の記述に基づいて中背で逞しい人物としてカール5世を描いているのに対し、ティツィアーノは皇帝の外見を微妙に変え、より優雅で威厳のある人物として描いています。ティツィアーノは、ザイゼンエッガーよりもスリムな胴体にし、毛皮のマントの面積を大きくしています。さらに、皇帝の表情にも変化を加え、ザイゼンエッガーの絵画では重たげな瞼を、ティツィアーノは大きく見開かせることで、皇帝の顔つきに生気を与え、真っ直ぐで整った鼻を描いています。
また、ティツィアーノは皇帝を際立たせるために、空間の扱いも改善しています。ザイゼンエッガーの作品では、幾何学模様の床が壁と接する位置が高く、部屋の奥行きが制限されています。これに対し、ティツィアーノは床の模様を省略し、皇帝をより低い位置に立たせることで、空間の広がりと奥行きを生み出し、人物像を画面前面に押し出すと同時に、部屋を広く見せています。さらに、ザイゼンエッガーの作品では画面左の背景にある緑のカーテンが空間の狭さを強調していますが、ティツィアーノはカーテンを画面左端に配置することで皇帝の姿を明確にし、両足の間の空間を開放しています。その結果、ティツィアーノのキャンバスはザイゼンエッガーのものより小さいにもかかわらず、より大きな空間的な広がりと奥行きを獲得しています。ティツィアーノはこれらの変更に加え、ザイゼンエッガーの冷たい色調を避け、ヴェネツィア派特有の繊細で段階的な色彩を使用し、皇帝を包み込む柔らかな絵画空間を構築しています。
2つの作品の関係は複雑です。多くの専門家は、ティツィアーノがザイゼンエッガーの後に制作したと考えていますが、近年はX線撮影による科学的調査の結果から、ティツィアーノが先に制作したとする説を支持する人も増えています。とはいえ、ザイゼンエッガーは1532年の肖像画に見られる要素を含む、カール5世の全身肖像画を1530年から制作し続けていたことは確かです。また、ティツィアーノのような優れた肖像画を制作した後に、別の画家がそれを基に質の劣る複製を制作したとは考えにくいとも言われています。競争心の強いティツィアーノが、より優れた作品を描くことで、同じ分野で先行する他の画家に対して自身の優位性を示したいと考えるのは自然な感情でしょう。実際に、ティツィアーノの肖像画の優位性はカール5世に認められ、高額の報酬と貴族の身分が与えられた後、アレクサンドロス大王を模倣して絵を描く権利も与えられました。
この絵画は、後にスペイン王室のコレクションとなりましたが、1623年にティツィアーノの『パルドのヴィーナス』とともにイギリスに渡りました。当時18歳だったフェリペ4世はまだ芸術に関心が薄く、皇太子であった後のイングランド国王チャールズ1世がスペインを訪問した際に、両作品を譲り渡しました。1650年に清教徒革命によってチャールズ1世が処刑されると、そのコレクションは競売にかけられ、『猟犬を伴う皇帝カール5世』は建築家バルサザール・ガービアーに売却されました。その後、スペインの大使アロンソ・デ・カルデナスがフェリペ4世の密命を受け、宰相ルイス・メンデス・デ・アロの指示のもとで絵画の買収にあたり、バルサザール・ガービアーから本作品を買い戻しました。同時に、ラファエロ・サンツィオの『聖家族』、ティントレットの『使徒たちの足を洗うキリスト』、アンドレア・マンテーニャの『聖母の死』、アンドレア・デル・サルトの『階段の聖母』、アルブレヒト・デューラーの『自画像』といった作品もスペイン王室にもたらしました。一方、『パルドのヴィーナス』はジュール・マザラン枢機卿に購入された後、フランス王室のコレクションに加えられました。
（ギャラリーの画像データは省略）
イアン・G・ケネディー『ティツィアーノ』、Taschen（2009年）
『ブラド美術館展 スペイン王室コレクションの美と栄光』国立西洋美術館ほか（2002年）
* 『プラド美術館展 スペインの誇り 巨匠たちの殿堂』国立プラド美術館、読売新聞東京本社文化事業部ほか編（2006年）
プラド美術館公式サイト, ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『犬を伴う皇帝カール5世』
この作品は、もともとオーストリアの画家ヤーコプ・ザイゼンエッガーが描いた肖像画の複製を制作するために依頼されました。しかし、ティツィアーノは原作をはるかに凌駕する完成度で作品を描き上げました。彼は、1529年から1530年（または1532年）にかけてもカール5世の肖像画を描いており、この作品によってカール5世からの画家としての評価を確固たるものにしました。現在、この絵画はマドリードのプラド美術館に所蔵されています。
制作背景
カール5世とティツィアーノの関係は1529年にまで遡ります。この年、マントヴァ侯爵フェデリーコ2世・ゴンザーガが、カール5世の関心を得るためにティツィアーノを招聘し、カール5世の最初の肖像画が描かれました。この作品は現存していませんが、甲冑姿の半身像であったことが、ジョヴァンニ・ブリートの木版画やピーテル・パウル・ルーベンスの模写からわかっています。その後、1530年にカール5世はボローニャで戴冠し、1532年には教皇との会見のためにマントヴァに滞在しました。この時、最初の肖像画が制作されたとする見方もあります。そして、本作品は、その翌年にボローニャで皇帝と再会した際に依頼されたものです。
一方、ヤーコプ・ザイゼンエッガーは1530年から1532年にかけて、皇帝の全身肖像画を5枚制作しています。ザイゼンエッガーは、1530年にカール5世の依頼でマヨルカ島のラ・アルムダイナ王宮に所蔵される最初の全身像を制作。1531年には、カール5世の兄弟フェルディナンドの依頼で皇帝の肖像画をプラハで2枚、さらに1532年にはボローニャとラティスボンでそれぞれ制作しています。
作品
絵画に描かれているカール5世は、銀糸の刺繍が施されたブロケードの胴着と黒い毛皮付きの外套を身にまとい、黒い帽子を被り、白い靴を履いています。また、イギリス産の白い雌の猟犬を伴っています。この姿は、1532年11月1日にバッサーノを訪問した際の服装と同様です。この宮廷的な要素と軍事的な要素の組み合わせは、洗練さと権力を併せ持つ皇帝のイメージを表現し、同時にイタリアに対するカール5世の支配を宣言しています。猟犬の描写は、ザイゼンエッガーの絵画の方が実物に忠実であるとされますが、ティツィアーノの肖像画はザイゼンエッガーのそれを凌駕しています。
両者の肖像画は類似点はあるものの、皇帝のイメージは大きく異なっています。ザイゼンエッガーが、同時代の記述に基づいて中背で逞しい人物としてカール5世を描いているのに対し、ティツィアーノは皇帝の外見を微妙に変え、より優雅で威厳のある人物として描いています。ティツィアーノは、ザイゼンエッガーよりもスリムな胴体にし、毛皮のマントの面積を大きくしています。さらに、皇帝の表情にも変化を加え、ザイゼンエッガーの絵画では重たげな瞼を、ティツィアーノは大きく見開かせることで、皇帝の顔つきに生気を与え、真っ直ぐで整った鼻を描いています。
また、ティツィアーノは皇帝を際立たせるために、空間の扱いも改善しています。ザイゼンエッガーの作品では、幾何学模様の床が壁と接する位置が高く、部屋の奥行きが制限されています。これに対し、ティツィアーノは床の模様を省略し、皇帝をより低い位置に立たせることで、空間の広がりと奥行きを生み出し、人物像を画面前面に押し出すと同時に、部屋を広く見せています。さらに、ザイゼンエッガーの作品では画面左の背景にある緑のカーテンが空間の狭さを強調していますが、ティツィアーノはカーテンを画面左端に配置することで皇帝の姿を明確にし、両足の間の空間を開放しています。その結果、ティツィアーノのキャンバスはザイゼンエッガーのものより小さいにもかかわらず、より大きな空間的な広がりと奥行きを獲得しています。ティツィアーノはこれらの変更に加え、ザイゼンエッガーの冷たい色調を避け、ヴェネツィア派特有の繊細で段階的な色彩を使用し、皇帝を包み込む柔らかな絵画空間を構築しています。
2つの作品の関係は複雑です。多くの専門家は、ティツィアーノがザイゼンエッガーの後に制作したと考えていますが、近年はX線撮影による科学的調査の結果から、ティツィアーノが先に制作したとする説を支持する人も増えています。とはいえ、ザイゼンエッガーは1532年の肖像画に見られる要素を含む、カール5世の全身肖像画を1530年から制作し続けていたことは確かです。また、ティツィアーノのような優れた肖像画を制作した後に、別の画家がそれを基に質の劣る複製を制作したとは考えにくいとも言われています。競争心の強いティツィアーノが、より優れた作品を描くことで、同じ分野で先行する他の画家に対して自身の優位性を示したいと考えるのは自然な感情でしょう。実際に、ティツィアーノの肖像画の優位性はカール5世に認められ、高額の報酬と貴族の身分が与えられた後、アレクサンドロス大王を模倣して絵を描く権利も与えられました。
来歴
この絵画は、後にスペイン王室のコレクションとなりましたが、1623年にティツィアーノの『パルドのヴィーナス』とともにイギリスに渡りました。当時18歳だったフェリペ4世はまだ芸術に関心が薄く、皇太子であった後のイングランド国王チャールズ1世がスペインを訪問した際に、両作品を譲り渡しました。1650年に清教徒革命によってチャールズ1世が処刑されると、そのコレクションは競売にかけられ、『猟犬を伴う皇帝カール5世』は建築家バルサザール・ガービアーに売却されました。その後、スペインの大使アロンソ・デ・カルデナスがフェリペ4世の密命を受け、宰相ルイス・メンデス・デ・アロの指示のもとで絵画の買収にあたり、バルサザール・ガービアーから本作品を買い戻しました。同時に、ラファエロ・サンツィオの『聖家族』、ティントレットの『使徒たちの足を洗うキリスト』、アンドレア・マンテーニャの『聖母の死』、アンドレア・デル・サルトの『階段の聖母』、アルブレヒト・デューラーの『自画像』といった作品もスペイン王室にもたらしました。一方、『パルドのヴィーナス』はジュール・マザラン枢機卿に購入された後、フランス王室のコレクションに加えられました。
ギャラリー
（ギャラリーの画像データは省略）
参考文献
イアン・G・ケネディー『ティツィアーノ』、Taschen（2009年）
『ブラド美術館展 スペイン王室コレクションの美と栄光』国立西洋美術館ほか（2002年）
* 『プラド美術館展 スペインの誇り 巨匠たちの殿堂』国立プラド美術館、読売新聞東京本社文化事業部ほか編（2006年）
外部リンク
プラド美術館公式サイト, ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『犬を伴う皇帝カール5世』
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