王艮

王艮（おう こん）は、1483年から1541年にかけて明代に生きた思想家です。字は汝止（じょし）、号を心斎（しんさい）と称しました。彼は、もともと銀（ぎん）という名前でしたが、後に王艮と改名しました。揚州府泰州安豊場（ようしゅうふたいしゅうあんぽうじょう）の出身で、製塩業を営む家庭に生まれました。

若い頃、塩の取引で山東へ旅をした際、曲阜（きょくふ）の孔廟（こうびょう）を訪れたことがきっかけで学問に志すようになったと言われています。その後、1520年に王陽明（おうようめい）に入門し、彼の思想を深く学びました。王陽明の没後、王畿（おうき）、鄒守益（すうしゅえき）、欧陽徳（おうようとく）、聶豹（じょうひょう）、羅洪先（らこうせん）といった同門の弟子たちと共に、王陽明が提唱した「致良知（ちりょうち）」説を継承し、発展させました。

王艮の学問の特徴は、格物説に独自の解釈を加えた点にあります。彼は、自己の主体性を最も重視し、自己の修養だけに励む「独善」の態度を批判しました。ここでいう「独善」とは、天下を治めるという理想を顧みず、自分のことだけを考えている状態を指します。王艮は、万物は一体であるという思想も説き、社会への貢献を重視しました。

王艮は、生涯にわたって官僚になることはなく、一介の浪人学者として地方で講演活動に励みました。著書には、『王心斎先生集（おうしんさいせんせいしゅう）』全5巻があります。

彼の門下からは、夏叟（かそう）、韓貞（かんてい）、朱恕（しゅじょ）といった、富裕層とは異なる出自の学者たちが輩出しました。彼らは、主に活動した場所から「泰州学派（たいしゅうがくは）」と呼ばれました。また、その思想的立場から「現成派」や「左派」、または「最左派」と見なされることもあります。彼らは、農民、職人、商人といった庶民層に対して積極的に教化活動を行い、農閑期に各地を巡って講学を行ったとされています。

泰州学派は、陽明学内部において異端視されることもありました。伝統的な儒学の立場からは、彼らの過激な言動は受け入れがたいものだったようです。しかし、近代の研究においては、彼らの思想の中に、反権力や近代的な考え方を読み取ろうとする動きも生まれています。そうした観点からすると、泰州学派は陽明学の核心を伝えた最も重要な一派であると評価することもできます。

泰州学派を始めとする王学左派（現成派）は、敗戦後の日本の精神風土とも結びつき、反権力、近代思惟、庶民、被弾圧者といった概念と関連付けられるようになりました。その結果、明代末期においてそれらの概念を実践的に行ったとする歴史的役割を担わされることになりました。そのため、古典の世界における陽明学、特に泰州学派の評価は、前近代と近代の間で大きな隔たりが生じることになりました。

王艮の研究は、著作集である『文集』の様々な版本を通して行われてきました。日本で刊行されたものには、返り点つきの『王心斎全集』などがあります。また、主要な学説は黄宗羲（こうそうぎ）の『明儒学案（みんじゅがくあん）』などに収録されています。

王艮の著作の全訳はまだ存在していませんが、佐野公治氏の『陽明門下(中)』や『王心斎』などには、王艮の主要な学説が翻訳されており、彼の思想的特徴についても論じられています。さらに、容肇祖（ようちょうそ）の『明代思想史』も参考になります。

関連文献として、島田虔次氏の『中国における近代思惟の挫折』、楠本正継氏の『宋明時代儒学思想の研究』、荒木見悟氏の『仏教と儒教』や『陽明学の開展と仏教』などがあります。これらの文献を通して、王艮が生きた時代の思想状況をより深く理解することができるでしょう。

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