甲州三嶌越

葛飾北斎『冨嶽三十六景』より「甲州三嶌越」：大胆な構図と幻想的な富士山

葛飾北斎の代表作として名高い『冨嶽三十六景』。その中の一枚、「甲州三嶌越」は、他の作品とは一線を画す独特の魅力を放っています。落款には「前北斎為一笔」とあり、北斎自身の強いこだわりが感じられます。

この作品は、山梨県富士吉田市から静岡県御殿場市を経て三島市に至る道中の難所、籠坂峠付近から望む富士山を描いたものだと考えられています。画面の中央には、圧倒的な存在感を示す巨木がそびえ立ち、その周囲には旅人たちが集まっています。この巨木と遠くに見える富士山との対比によって、劇的な遠近感が生み出されています。

北斎は、卓越した描写力によって、富士山の雄大な姿を余すことなく表現しています。裾野から立ち上る雲や、山頂を覆う笠雲は、写実的な描写を超えた、独特の幻想的な表現によって描かれています。富士山山頂部は濃い藍色で染め上げられ、裾野には墨の暈かし摺りの技法が用いられ、奥行きと立体感を巧みに表現しています。

しかし、この絵に描かれたような巨木が籠坂峠に実在したという記録は、現時点では確認されていません。そのため、十返舎一九の『金草鞋』に登場する笹子峠の矢立ての杉などを参考に、北斎が創作した可能性が指摘されています。興味深いことに、北斎自身も『北斎漫画』七編の中で「甲州　矢立ての杉」を描いており、この説を裏付ける材料となっています。

さらに、「甲州三嶌越」には、旅人たちが手をつないで巨木の幹の太さを測っている様子が描かれています。この場面は、1805年頃に石部宿を描いた『東海道五十三次』「石部」にも登場しており、北斎が自身の過去の作品からモチーフを引用している可能性を示唆しています。

美術史的な観点からも、「甲州三嶌越」は注目に値します。フランスの印象派の巨匠クロード・モネが描いた『アンティーブ岬』の構図は、本作品から影響を受けている可能性が指摘されており、しばしば両作品が対比展示される機会があります。モネが北斎の作品に接し、その大胆な構図や色彩感覚に感銘を受けたことは想像に難くありません。

このように、「甲州三嶌越」は、北斎の高度な描写力、大胆な構図、そして幻想的な表現が見事に融合した傑作です。単なる風景画にとどまらず、北斎の芸術思想や、当時の社会状況、さらには後の西洋美術にも影響を与えた重要な作品として、高く評価されています。その神秘的な魅力は、今もなお多くの人々を魅了し続けています。

参考文献

日野原健司『富嶽三十六景』岩波書店、2019年。ISBN 978-4-00-335811-5。
磯崎康彦「北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』 34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年、124-109頁。http://hdl.handle.net/10270/5478。

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