男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋

『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』：誠実さと真実の間で揺れる旅路

国民的コメディシリーズ『男はつらいよ』の第29作にあたる本作は、1982年8月7日に劇場公開されました。今回は、内向的でありながらも心に熱いものを秘めた一人の女性への恋を通じて、主人公・車寅次郎が、他者への誠実さと自分自身の心に嘘をつかないことという、ともすれば相反しかねない二つの価値観の間で深く葛藤する姿を描いています。

物語は、寅次郎が見る夢から始まります。落語の『抜け雀』を思わせるこの導入部では、旅の絵描きとなった寅次郎が、貧しい一家のために障子に絵を描くと、そこから本物の雀が飛び立ち、一家に富をもたらすという幻想的なアニメーションが用いられています。これはシリーズでも珍しい試みです。

夢から覚めた寅次郎は、古都・京都へと旅に出ます。そこで葵祭を見物中に、偶然出会った老人の下駄の鼻緒を直してあげたことから、その人物、人間国宝でもある著名な陶芸家・加納作次郎と親交を結びます。加納の自宅兼工房には、数年前に夫と死別し、娘を丹後の実家に預けて住み込みで働く未亡人、かがりがいました。影のあるたたずまいながらも静かな情熱を秘めかがりに、寅次郎はたちまち心を奪われます。

加納のもとでかつて修行し、独立した弟子である蒲原が加納宅を訪れます。皆がかがりと結婚するものと思っていた蒲原ですが、親が決めた別の女性との結婚が決まったことを告げます。この状況に対し、加納はかがりの煮え切らない態度を咎めて叱責してしまいます。翌日、加納宅を訪れた寅次郎は、かがりが実家へ帰ったことを知らされます。寅次郎が再び旅に出ようとすると、加納は彼に「風が丹後のほうに吹いていないか、かがりの様子を見てきてほしい」と頼み、感謝の印として美術館が所望するほどの価値を持つ名器、茶碗を託します。その価値を理解できない寅次郎は戸惑いますが、加納の思いを受け取り、丹後のかがりのもとへと向かいます。

丹後でかがりと再会した寅次郎は、帰りの船を逃し、かがりの家に泊まることになります。静かに寅次郎に惹かれていくかがりでしたが、寅次郎は「他人に誠実であること」をあまりに意識するあまり、自分の本心を抑え込み、消極的な態度を取り続けてしまいます。結局、恋心と向き合いきれない寅次郎は、逃げるように柴又のとらやへ帰京します。「自身の心に嘘をつかない」ことに向き合えなかった彼は、文字通り恋の病で寝込んでしまいます。

数日後、とらじろうのもとへ、かがりが友人と共に訪ねてきます。その際、かがりから密かに書き付けを渡された寅次郎は、数日後の日曜日に鎌倉のあじさい寺（成就院）でデートの約束をします。生まれて初めてのデートに極度に緊張した寅次郎は、甥の満男を無理やり同行させます。緊張のあまりいつもの調子が出ず、終始満男ばかりに話しかけてしまう寅次郎。やがて夕方、江ノ島の海を眺めながら、かがりは寅次郎に、今日の姿は京都や丹後で会った時とは違う、快活さが失われていると指摘します。こうして二人の恋は再び暗礁に乗り上げ、品川で別れた寅次郎は一人、涙を流すのでした。かがりからとらやに電話が入り、京都へ帰るという伝言が残されます。結局、この儚い恋は成就することはありませんでした。そして、寅次郎もまた、いつものように旅へと出るのでした。

物語の終盤、加納の内弟子である近藤（柄本明）がとらやを訪れ、加納が寅次郎に贈った茶碗を個展のために借りたいと申し出ます。その茶碗の価値を知らないとらやの人々は、なんとそれをタコ社長が灰皿として使っていたのです。その日、かがりから届いたはがきには「とても恥ずかしいことをしてしまいましたけど、寅さんならきっと許してくださると思います。風はどっちに向かって吹いていますか。丹後のほうには向いていませんか」と綴られていました。一方、寅次郎は彦根城のそばにある公園で加納の名を騙って瀬戸物を商売している最中、偶然彦根に立ち寄っていた加納本人と再会し、苦笑いを浮かべながらその日の仕事を切り上げ、加納と行動を共にするのでした。

本作の特筆すべき点として、シリーズの「お約束」を意識的に外した、静かで繊細な演出が多く見られます。京都の町並み、丹後の漁港、そして鎌倉の寺や海といった美しいロケ地を背景に、マドンナとの心温まる交流や、恋の切なさが淡々と描かれます。特に鎌倉の成就院でのロケは、シリーズの撮影拠点である松竹大船撮影所の地元でありながら、それまで本格的な撮影が行われてこなかった地域での初の公式ロケとなりました。また、冒頭の夢のシーンでのアニメーション、寅次郎の早回し映像、マドンナのフラッシュバックなど、これまでにない映像表現が取り入れられている点も注目されます。そして、主題歌の途中でセリフ入りのドラマが挿入され、再び主題歌に戻るというユニークな構成も本作の特徴です。

主演の渥美清、さくら役の倍賞千恵子をはじめ、かがり役のいしだあゆみ、そして加納作次郎役として歌舞伎界から招かれた十三代目・片岡仁左衛門といった多彩なキャストが集結しました。特に、山田洋次監督がその情熱と雅量に憧れたという片岡仁左衛門の存在感は大きく、作品に深みを与えています。また、本作で初めて本格的に登場し、以降は寅次郎のテキヤ仲間ポンシュウ役として定着する関敬六や、後のシリーズで再登場する津嘉山正種など、シリーズファンには嬉しい配役も見られます。内弟子・近藤を演じた柄本明の瑞々しい演技も印象的です。

本作は、観客動員約139万3000人、配給収入約10億4000万円を記録し、興行的にも成功を収めました。そして、その芸術性も高く評価され、第25回ブルーリボン賞では最優秀映画賞、主演男優賞（渥美清）、助演男優賞（柄本明）を受賞。さらに、第6回日本アカデミー賞でいしだあゆみが主演女優賞を、第7回報知映画賞でも柄本明が最優秀助演男優賞を受賞するなど、多くの映画賞に輝いています。

いつもの騒動や笑いだけでなく、一人の女性との静かでほろ苦い交流を通して、寅次郎の人間的な葛藤と、旅の侘しさがより深く描かれた『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』は、シリーズの中でも特に情感豊かな一作と言えるでしょう。

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