社会的選好

概要

社会的選好とは、人間が自身の物質的な利益だけでなく、集団内の他者の利益や、その利益につながる行動の意図をも考慮して意思決定を行う傾向を指します。これは、人間は自身の利益だけを追求する合理的な存在であるという従来の経済学の仮定とは異なる視点を提供します。行動経済学、実験経済学、社会心理学などの分野で広く研究されており、利他主義、公平性、互恵主義、そして不公平を避けるといった多様な側面を含んでいます。

経済学における社会的選好の研究は、1980年代の実験室実験に端を発します。最後通牒ゲームや独裁者ゲームといった経済ゲームを用いた実験で、被験者の行動が自己利益追求の予測から系統的に乖離することが明らかになり、この発見が1990年代から2010年代にかけて、利他性や公平性、互恵性といった他者への配慮を組み込んだ新たな経済モデルの開発を促しました。近年では、実社会におけるフィールド実験も増加し、社会的選好がどのように形成され、社会全体に応用されるかが探求されています。

心理学的な側面と決定要因

社会的選好の度合いは、幼少期や思春期の経験を通して形成され、遺伝子の発現に影響を与えたり、文化や社会の様々な側面に無意識のうちに浸透したりすることで、人々の物事の捉え方や反応の仕方に影響を及ぼします。したがって、社会的選好の形成は、仕事での成功や良好な人間関係、幸福な人生を送る上で重要視されています。

心理学的な研究からは、社会的評価や好感度を高める多様な要因が示されています。思春期における学校内での人間関係においては、外見（特に顔）が重要な要素の一つとされます。また、積極的に活動を提案することは控える一方で、誰に対しても友好的に接する態度は好感度を高める特徴とされます。さらに、適切な体格や運動能力、そして利他的な行動（慈善活動など）は、人気や社会的評価を高める傾向があります。

感情表現についても文化的な違いが見られます。例えばアメリカでは、悲しみや不安といった否定的な感情は一般的に歓迎されませんが、目標達成のための計画的な行動は社会的評価を高め、出世につながりやすいとされます。一方、中国では、これらの否定的な感情や計画的な行動が、対人評価にそれほど大きく影響しないと報告されています。

全体として、アメリカにおける社会的地位獲得には、「美しい顔」「運動能力」「悲しみの抑制」「利他的行動」「不安の抑制」「内向性の抑制」「計画遂行能力」「学力」の順に重要とされます。一方、好感度を高めるには、「敵意バイアスと攻撃性の抑制」「活動提案を控えつつ友好的に接すること」「他者からの拒絶を予期しないこと」「美しい顔」「利他的行動」「運動能力」「学力」「内向性の抑制」の順が重要視されています。

社会的選好がどのように決定されるかについては、「自然」（生物学的構成や遺伝）と「育成」（育った環境や社会）の二つの視点があります。研究文献の多くは遺伝の影響をより強く支持していますが、社会的距離、経済資源の分配、社会規範、宗教、民族性といった社会文化的要因も無視できない影響力を持つことが指摘されています。

形成プロセス

社会的選好の形成と発達については、生物学、心理学、経済学の分野から様々な理論が提案されています。

生物学的進化の観点では、血縁淘汰が近親者への利他的行動を説明する可能性があります。これは、自己の犠牲が遺伝子を共有する近親者の生存を助けることで、結果的に自己の遺伝子の存続に寄与するという考え方です。また、互恵的利他主義の選択は、将来的に他者からの返報を期待する行動が進化しうることを示唆します。ゲーム理論における「しっぺ返し戦略」（最初は協力し、以降は相手の直前の行動を模倣する）は、相互作用が繰り返される集団において進化的に安定した戦略となりうる例として挙げられます。

心理学的な観点では、社会的学習が重要です。アルバート・バンデューラは、子供たちが親や教師、仲間といった向社会的な行動モデルを模倣することによって、協力や道徳的な行動を学ぶと提唱しました。親の行動を子供が真似るという経済モデルも存在します。しかし、親の役割に関する実証的な研究結果は様々であり、指導法と子供の向社会性に関連が見られる研究もあれば、懲罰的な手法と関連が見られない研究もあります。近年では、学校やメンターシッププログラムが社会的選好の形成に良い影響を与えるというフィールド実験の証拠もあり、社会的な相互作用や文化的伝達の役割が示唆されています。

認知的要因も社会的選好の形成に寄与します。ジャン・ピアジェは、認知発達が道徳的判断と行動の基盤であると考えました。彼は、他者との社会的な相互作用を通じて、規則や他者の意図を理解することが道徳的発達につながると主張しました。他者の視点を理解する能力や道徳的な推論能力といった認知スキルも、向社会的な行動を促進する上で重要であると多くの実証研究が支持しています。

実証的証拠

社会的選好の存在を示す多くの証拠は、実験室や実社会での観察から得られています。

実験経済学では、被験者が金銭的なインセンティブの下で他者と交流する様々なゲームが行われました。これらの実験で、被験者の行動が自己利益のみを追求するという予測から逸脱し、利他性、不公平回避、互恵性といった社会的選好によって説明される傾向が繰り返し観察されています。

例えば、最後通牒ゲームでは、一方が提示された金額を受け入れるか拒否するかを決める際、自己利益だけならどんな少額でも受け入れるはずですが、実際には不公平な提案（全体の20%未満など）は拒否される傾向が見られます。提案者側も、拒否を避けるために比較的公平な分割（25%〜50%）を提示することが多いです。

独裁者ゲームは、受け入れる側が拒否する権利を持たない点を除けば最後通牒ゲームと似ています。ここでは戦略的な考慮が排除されるため、純粋な利他性がより現れやすいと考えられます。自己利益だけなら何も与えないはずですが、被験者の6割以上が何らかの金額を分け与え、平均的には全体の20%程度が譲渡されます。

信頼ゲーム（投資ゲーム）や贈り物交換ゲームは、互恵性を示す証拠を提供します。信頼ゲームでは、投資された金額が何倍かになって相手に渡され、相手はその中から一部を返還します。自己利益だけなら何も返還しないはずですが、投資額が増えるにつれて返還額も増加する傾向が見られます。贈り物交換ゲームでは、一方の努力が相手の見返りを増やしますが、努力にはコストがかかります。自己利益だけなら努力しないはずですが、報酬が高いほど努力レベルも増加する傾向が見られます。

囚人のジレンマや公共財ゲームも間接的な証拠となります。これらのゲームでは、協力することが全体の利益につながる一方で、個人的には非協力の方が有利になる状況が設定されます。しかし、多くの実験で、被験者は条件付きで協力する傾向が見られ、自己利益だけでなく、他者との協力やフリーライダーを罰する意欲が行動に影響していることが示されています。

フィールド実験からも社会的選好の証拠が得られています。例えば、需要増加後に価格を上げることを企業が躊躇するのは、顧客の公平性への懸念を考慮しているためと考えられます。また、労働環境における相対的な賃金や互恵性に関する研究では、より高い賃金を与えられた被験者が一時的に努力水準を高めることや、賃金カットによる努力減少が、賃金上昇による努力増加よりも大きいことなどが報告されています。

経済モデル

社会的選好を説明するための経済モデルは、主に「分配的選好」と「相互選好」に分類されます。

分配的選好は、自分と他者、あるいは集団内での利益の分配とその全体的な量に対する選好をモデル化します。これには、他者の幸福を願う「純粋利他主義」や、良い行いをすること自体で満足感を得る「温かい輝き」といった概念が含まれます。反対に、他者の成功を妬む「意地悪」や「嫉妬」も分配的選好の一つです。

「公平性」や「不公平回避」も分配的選好の重要な要素です。Fehr-Schmidtモデルなどでは、人々は自分と他者との利益の差に不快感を抱き、特に自分が他者より不利な状況にあることを強く嫌うと仮定します。これにより、他者より恵まれている状況では利他的に振る舞い、不利な状況では意地悪な行動をとる傾向が説明されます。

「効率性への懸念」や「準マキシミン選好」も分配的選好の一部です。Gary CharnessとMatthew Rabinの研究では、人々はより効率的な結果（社会全体の利益が大きい結果）を好む傾向があることが示されました。準マキシミン選好とは、集団内で最も利益が少ない人の利益を重視しつつ、全体の利益も考慮する選好です。

相互選好は、他者の行動の「意図」に対する配慮を反映したモデルです。Rabin（1993）のモデルはその先駆けであり、他者の行動が自分にとって親切であったか不親切であったかによって、それに報いるように行動するという「相互主義」をモデル化しました。親切な行動に対しては積極的に報い、不親切な行動に対しては否定的に反応すると仮定します。CharnessとRabinは、不公平回避や効率性への懸念と相互主義を組み合わせたモデルも提案しています。

経済への応用

社会的選好の理解は、現実世界の経済行動をより深く理解し、効果的な政策や制度を設計する上で不可欠です。

協力行動の理解: 社会的選好に関する研究は、人々が他者も協力すると確信できる場合や、フリーライダーを罰する機会がある場合に、不公平を嫌い相互性を重んじる個人が協力する可能性を示しています。これは、公共財供給のようなフリーライディング問題に対処するための適切な社会的メカニズム設計に役立ちます。自発的な貢献行動の存在も、社会的選好によって説明されます。

経済的インセンティブの設計: 従業員の互恵性や公平性への配慮を考慮に入れることは、より良い雇用契約（例えば、信頼に基づく契約やボーナス制度）を設計し、従業員の労働意欲を高め、企業内のエージェンシー問題を解決するのに役立ちます。また、職場における相対的な賃金の設計も、従業員の満足度や幸福に影響を及ぼす可能性があります。金銭的インセンティブが内発的な動機付けを抑制する「クラウディングアウト効果」の理解にも、社会的選好の知見が貢献しています。

社会政策の設計: 分配的および相互的な選好は、良い政府運営や倫理的な基準の維持に不可欠です。これらの選好がなければ、自己利益追求やフリーライダー問題により、社会全体にとって望ましい経済的な資源配分を達成することは困難になります。社会的選好に関する研究は、公共政策において最適なインセンティブ構造を設計する上で役立ちます。特に再分配政策の場合、人々の公平性への配慮が政策評価に影響を与えます。また、貧困層に対する政策評価は、彼らが「ふさわしい」か「ふさわしくない」かという個人の相互的な選好に基づいた信念によって影響を受ける可能性があります。

参考文献

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