美ち奴

昭和の歌謡界で一世を風靡した芸者歌手、美ち奴（本名：久保染子）は、1917年（大正6年）6月8日に北海道浜頓別で生を受けました。通説で樺太出身と語られることがありますが、これは誤りです。彼女は4人兄弟の長女として生まれ、父親は歌舞伎の旅一座を率いた経験を持つ久保百合太（芸名：中村玉二郎）でした。幼い頃から役者である父の影響を受け、芸事に強い関心を持ち、特に三味線の道で身を立てることを夢見ていたといいます。

1931年（昭和6年）、三味線修行のため、浅草で芸者置屋「美ちの家」を営んでいた親戚を頼って上京します。しかし、翌年には親戚の経営が立ち行かなくなり、わずか15歳で「美ち奴」として芸者の世界へ足を踏み入れました。持ち前の才能と努力により、美ち奴は瞬く間に浅草の人気芸者となります。

転機が訪れたのは1933年（昭和8年）のこと。松竹映画「東京音頭」のトーキー部分の撮影に、浅草の芸妓の一人として参加した際、その独特の甲高い歌声が評判となりました。当時、芸者出身の歌手（鶯歌手）を探していたニットーレコード（現：キングレコード）の目に留まり、スカウトされます。そして1934年（昭和9年）、「さくらおけさ」で念願のレコード歌手デビューを果たしました。翌1935年（昭和10年）には、自らの名を取った芸者屋「染美ちの家」を開くほどの成功を収めます。

ニットーレコード時代には、当時まだ無名だった作曲家・服部良一の作品を数多く歌い、服部氏の結婚の橋渡し役を務めたという縁もあります。ヒット曲には恵まれなかったものの、毎月のように新譜を発表し、地道に評価を高めていきました。古賀政男を擁し、ライバル会社の芸者歌手に対抗馬を求めていたテイチクレコード（現：テイチクエンタテインメント）は、美ち奴に白羽の矢を立て、移籍契約を結びます。

1935年（昭和10年）秋、「ほんに貴方は罪な方」でテイチクから再デビュー。翌年には俳優・杉狂児とのデュエット曲「細君三日天下」がヒットし、その名は広く知られるようになります。この頃から、レコードジャケットの表記も「浅草 美ち奴」から単に「美ち奴」となり、彼女の知名度の高さを物語っていました。

絶大な人気を決定づけたのは、1937年（昭和12年）の同名日活映画の主題歌「あゝそれなのに」です。サトウハチロー作詞、古賀政男作曲によるこの歌は、発売後すぐに40万枚、最終的には90万枚を超える空前の大ヒットを記録しました。しかし、同年勃発した日中戦争の影響で、コミカルな内容が時局にそぐわないとされ発売禁止となります。その一方で、同年発表した「軍国の母」が戦時歌謡として最初の大ヒットとなるなど、時代の波に翻弄されつつも、歌手としての地位を不動のものとしました。1938年（昭和13年）の「霧の四馬路」もヒットし、ブロマイドの売上も上位を占める人気歌手として輝きを放ちます。

歌手活動と並行して、テイチクが提携していた日活映画にも多数出演しました。「東京音頭」での経験が活かされ、「花見音頭」「ジャズ忠臣蔵」などへの特別出演を経て、映画監督のマキノ正博と親交を深めます。マキノ監督作品「弥次㐂夛道中記」「清水港」シリーズなどでは旅芸人の役で出演し、その存在感を示しました。戦後にかけても「歌う狸御殿」「蛇姫道中」といった日活・大映作品に出演するなど、女優としても活躍しました。レコード歌手としても、「吉良の仁吉」「街道石松ぶし」「次郎長ぶし」「シャンラン節」といった股旅演歌・音頭ものを次々とヒットさせ、人気は絶頂期を迎えます。

戦時中は、楠木繁夫とともに中国大陸への慰問活動も行い、前線で戦う兵士を涙ながらに励ましたというエピソードも残されています。1943年（昭和18年）には北海道から両親を浅草に呼び寄せますが、1945年（昭和20年）の東京大空襲で両親を一度に失うという悲劇に見舞われました。

当時、美ち奴は浅草で人気を博していた女剣劇役者・中野弘子の芸に深く感銘を受け、舞台活動を共にするようになり、活動拠点を京都に移します。私生活では歌手・楠木繁夫が三原純子と結婚し、さらに両親を失った悲しみを乗り越えるかのように、中野弘子とともに全国を巡業し、慰問活動に専念しました。

戦後の一時期はヒットに恵まれず、引退説も流れましたが、1950年（昭和25年）の朝鮮特需によるお座敷ソングブームで再び脚光を浴びます。特に民謡「炭鉱節」は各社競作となる中、テイチク盤の美ち奴の歌唱のみが「三池炭鉱の上に出た」という歌詞で発売を許され、戦後初の大きなヒットとなりました。同時期、テイチクの新人歌手・真木不二夫との恋愛が報じられ、妻子ある真木との同棲生活を送りますが、真木の度重なる浮気が原因でストレスを感じ、自律神経失調症を患ってしまいます。1957年（昭和32年）、6年間の同棲生活に終止符を打ちました。生活のため、43歳で源氏名を「駒奴」と改め、再びお座敷に出ますが、往年の名声だけでは難しく、年齢と共に徐々に客足は遠のいていきました。

浅草のアパートで一人、病気と闘う美ち奴の苦境を知った親友の中野弘子は、かつての恩返しとばかりに全面的に彼女を支えました。隣室に引っ越して献身的に看病し、美ち奴の再起を後押しします。昭和40年代のなつメロブームに乗って、東京12チャンネル（現：テレビ東京）の「なつかしの歌声」に出演し、衰えぬ美声を披露しました。テイチクでも往年のヒット曲をステレオで再録音するなど、再びメディアに登場しますが、病気の再発を繰り返し、徐々にテレビ出演も困難となり、療養の日々が続きました。最後のテレビ出演は1978年（昭和53年）7月の「なつかしの歌声」と思われます。1983年（昭和58年）、東京都江東区の特別養護老人ホーム「むつみ園」に入所。その頃、NHKラジオ「昭和歌謡大全集」に出演したのが、美ち奴としての最後の放送となりました。後に中野弘子も同じ老人ホームに入所し、所内の演芸会では変わらぬ歌声を披露したり、中野と寸劇を演じたりと、身寄りのない中でも穏やかな晩年を過ごしました。1996年（平成8年）5月29日、大腸がんのため、親友・中野弘子に見守られながら78歳で永眠。中野弘子は美ち奴の四十九日を終えた後、後を追うように亡くなっています。波乱に満ちた生涯を送りながらも、最後まで歌を愛し、親友との絆に支えられた人生でした。

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