羽生蒸溜所

埼玉県羽生市にある羽生蒸溜所は、かつて稼働し、一度は歴史に幕を下ろしたものの、新たな形で再びウイスキー造りを行っている日本の蒸留所です。特に、閉鎖前に生み出された原酒が「イチローズモルト」として世界的に高い評価を得たことで知られています。

歴史

羽生蒸溜所の設立は1980年に遡ります。その母体となったのは、1625年に秩父で創業した歴史ある酒造会社、東亜酒造です。同社は日本酒製造から始まり、事業拡大に伴って1941年には現在の羽生市に本社を移転。日本酒に加え焼酎の生産も手がけるようになりました。戦後の日本国内におけるウイスキー需要の高まりを受け、1946年にはウイスキー製造免許を取得し、この分野へ参入します。

東亜酒造のウイスキーは「ゴールデンホース」の銘柄で広く親しまれ、その人気は「東の雄」と称されるほどでした。この頃は主にスコットランドから輸入したモルトウイスキーを使い、自社製の原料用アルコールやグレーンウイスキーとブレンドするスタイルでした。特にアベラワーのモルト原酒が頻繁に使われたとされています。

1980年代に入り、日本のウイスキーブームが最盛期を迎えます。しかし、当時は1985年のプラザ合意前で円安が進んでおり、スコットランドからのモルト原酒購入はコスト高となっていました。これに対応するため、1980年に自社でモルトウイスキーを生産すべく設立されたのが羽生蒸溜所です。当初はポットスチルが1基のみで初留・再留を兼ねていましたが、翌1981年には2基に増設され、本格的なモルト原酒製造体制を整えました。ところが、1985年のプラザ合意による急激な円高や、1984年以降の国内ウイスキー消費量の減少といった時代の変化が逆風となり、自社でのモルト原酒生産は相対的に不利になります。そして、1991年に羽生蒸溜所でのウイスキー生産は停止されることになります。

閉鎖と「イチローズモルト」の誕生

1996年、当時の東亜酒造社長の息子である肥土伊知郎氏が、経営難に陥っていた同社に入社しました。伊知郎氏は大学卒業後、サントリーで企画・営業に携わった経験があり、その手腕が期待されてのことでした。

この時期、羽生蒸溜所に残されていた原酒は、生産スタッフからは「飲みにくく、売れない」と評されていました。しかし、伊知郎氏自身がテイスティングしたところ、「個性的で面白い」と感じたといいます。そこで、ウイスキー専門店などに試飲を依頼した結果、「これは面白い」という肯定的な評価が得られたことから、この原酒が持つ個性を活かした製品づくりを目指すことになります。2000年には、東亜酒造としては初となるシングルモルトウイスキー「ゴールデンホース秩父8年」を発売。その後も熟成年数を重ねた製品をリリースしましたが、当時の日本市場では個性的なウイスキーへの需要はまだ小さく、2000年に生産を再開した矢先に、同年中に蒸留所は再び閉鎖されてしまいます。

この頃、東亜酒造は伊知郎氏の父が進めた多額の設備投資が経営を圧迫しており、2000年には会社更生法の適用を申請。2004年には日の出ホールディングスに売却されることとなり、羽生蒸溜所も同年に解体される運命をたどりました。新オーナーは伊知郎氏に会社に残るよう要請しましたが、彼は退職の道を選び、ベンチャーウイスキーを設立。そして、廃棄される予定だった羽生の原酒を買い取り、「イチローズモルト」の名で世界に送り出すことを決意します。この決断が、後に羽生原酒の世界的な評価へと繋がることになります。

復活

閉鎖から長い年月を経た後、東亜酒造は2016年に海外産のウイスキー原酒を輸入し、「ゴールデンホース」シリーズの販売を再開します。さらに、2019年には新たな蒸留所の建設に着手し、2021年に完成。同年2月には、羽生の地で再びモルトウイスキーの蒸留が始まりました。

製造

新蒸留所での製造

現在、新羽生蒸溜所では、赤城山系の清らかな伏流水を仕込み水に使用しています。麦芽は、スコットランドのシンプソンズ社製のピーテッドとノンピーテッドの両方を使い分け、一度に1トンの麦芽を扱います。糖化槽は容量6000リットルのステンレス製。発酵槽（ウォッシュバック）は、温度調節機能が付いた最新鋭のものが5基あり、容量はそれぞれ8000リットルです。これらは三宅製作所によって製造されています。

蒸留には、旧羽生蒸溜所の設計図を基に忠実に再現されたランタン型のポットスチルが2基用いられています。初留器は容量6000リットル、再留器は容量3000リットルです。スチルの接合部には、羽生の名産である藍染をモチーフにした美しい藍色が施されています。加熱方式には蒸気による間接加熱、冷却装置にはシェル＆チューブ式が採用されています。蒸留されたニューポットは、樽詰め時にアルコール度数60度に調整され、ラック式の熟成庫で静かに眠りにつきます。

旧蒸留所での製造

2000年に閉鎖された旧羽生蒸溜所では、軽めから中程度のピートを用いたイギリス産の麦芽を使用していました。特徴的なのは、発酵槽に日本酒の醸造に使われていたものが転用されていた点です。ポットスチルは初留、再留ともに容量4000リットルのものが使われていました。熟成に用いる樽は、スコットランドから輸入されたウイスキー樽（多くはリフィル・ホグズヘッド）を再利用することが多かったため、旧羽生の原酒の多くはこのリフィル・ホグズヘッドで熟成されました。また、地元にあるマルエス洋樽が製造したアメリカンオークのパンチョン樽も使われていました。

製品と評価

旧羽生蒸溜所で生産された原酒の大部分は、肥土伊知郎氏によって買い取られ、自身のベンチャーウイスキーから「イチローズモルト」としてリリースされ、世界的に評価されることになります。特に、トランプのカードになぞらえてボトリングされた「カードシリーズ」は、1985年から2000年までに蒸留された原酒を様々な樽で後熟させたもので、その高い品質と希少性からコレクターズアイテムとしても非常に人気があり、オークションでは高額で取引されています。

一方で、2022年4月現在、東亜酒造から販売されている「ゴールデンホース武蔵」や「ゴールデンホース武州」といった製品は、新羽生蒸溜所で造られた原酒は使用していません。新蒸留所での初期製品としては、クラウドファンディングの返礼品としてニューポットが限定的にリリースされています。

ウイスキー評論家のマイケル・ジャクソン氏は、旧羽生原酒の特徴を「かすかなピートと、多少草のようで、植物的で甘いフルーツのよう」と評しています。その独特のキャラクターが、多くのウイスキー愛好家を魅了し、閉鎖された蒸留所の原酒が伝説的な存在となる礎を築きました。復活した羽生蒸溜所が、今後どのようなウイスキーを生み出していくのか、世界の注目が集まっています。

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