肥土伊知郎

肥土 伊知郎：ジャパニーズウイスキーの革新者

肥土 伊知郎氏（1965年生まれ）は、日本のウイスキー界に革命をもたらした技術者であり実業家です。埼玉県秩父市の出身で、世界的に高い評価を受けるウイスキーブランド「イチローズモルト」を擁する株式会社ベンチャーウイスキーの創業者兼社長を務めています。

肥土氏の実家は、江戸時代から続く日本酒蔵元であり、その21代目として生を受けました。興味深いことに、祖父はかつて羽生蒸溜所を運営していた東亜酒造の設立者であり、肥土氏のルーツには洋酒製造との縁もありました。

幼い頃、肥土氏には家業を継ぐ明確な意思はありませんでした。希望していた大学には合格しなかったものの、父の勧めもあり、東京農業大学醸造学科に入学し、醸造学という専門分野を深く学ぶことになります。大学卒業後、サントリー株式会社に入社。父からは「実家に戻るつもりなく仕事に打ち込め」と言われ、自身も定年まで勤め上げる覚悟でした。当初は憧れの山崎蒸溜所での勤務を望んでいましたが、当時のウイスキー技術者採用は大学院修士課程修了者が対象だったため、その道は叶いませんでした。配属された東京や横浜での営業職では、二度にわたり業績表彰を受けるなど、確かな実績を上げ、仕事そのものには充実感を感じていました。

しかし、心の中には「本当はものづくりに携わりたい」という強い思いが募り続けます。29歳を迎える頃、家業である東亜酒造の経営が悪化。父からの要請を受け、実家を手伝うために帰郷を決意します。

2000年には東亜酒造が経営破綻し、民事再生法の適用を受けるに至りました。翌2001年には父から会社を譲り受け、社長に就任しましたが、懸命な努力にもかかわらず業績は回復しませんでした。そして2003年、会社を日の出通商（現日の出ホールディングス）へ売却するという苦渋の決断を下します。

会社売却後、思いがけない事態に直面します。日の出通商がウイスキー事業からの撤退を決定したため、東亜酒造の羽生蒸溜所に保管されていた貴重なウイスキー原酒が、期限内に引き取り手が見つからなければ廃棄される運命にあると知らされたのです。肥土氏は、この原酒に秘められた無限の可能性を誰よりも強く信じていました。失われる危機にある原酒を救うため、文字通り奔走し、ついに福島県にある笹の川酒造からの支援を得ることに成功します。笹の川酒造からは原酒を保管するための貯蔵庫の提供を受け、原酒自体の購入費用は親戚からの温かい資金援助によって賄うことができました。

新たな出発として、2004年には故郷である秩父市に株式会社ベンチャーウイスキーを設立しました。設立後、肥土氏は技術指導のため笹の川酒造に通い、そこで保管されていた原酒を用いて、2005年春に「イチローズモルト」として初めて世に送り出しました。特に、アルコール度数56%の「イチローズモルト カードシリーズ」の一つである「キング オブ ダイヤモンズ」は、その品質が高く評価され、権威あるイギリスの専門誌『ウイスキーマガジン』のジャパニーズモルト特集で最高評価である「ゴールドアワード」を獲得するという快挙を成し遂げます。

自身の蒸溜所を持つという長年の夢に向け、肥土氏は様々な機会を模索します。2006年には、東京都内のバーでメルシャンの役員であった坂本恭輝氏との出会いをきっかけに、稼働を停止していた同社の軽井沢蒸留所でウイスキーの蒸留技術を学ぶ貴重な機会を得ました。この時得た知識と経験は、その後の蒸溜所建設に大きく活かされます。また、軽井沢蒸留所のモルト・マスターを務めていた内堀修省氏を、メルシャン退職後、自身の目指す秩父蒸溜所のチーフ・ディスティラーとして招き入れました。さらに、2007年にはスコットランドのベンリアック蒸留所でも研修を受け、ウイスキーの本場でさらなる研鑽を積みました。

そして2007年11月、遂に念願であったベンチャーウイスキー秩父蒸溜所が完成します。これは、日本国内において実に35年ぶりとなる新しいウイスキー蒸溜所の誕生であり、ジャパニーズウイスキーの歴史における新たな一歩となりました。

秩父蒸溜所から生まれるウイスキーは国内外で高い評価を受け、肥土氏自身も数々の栄誉に輝きます。2019年には国際的な品評会であるISC（インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ）において、その年の世界の洋酒界で最高のブレンダーに贈られる栄誉ある「マスター・ブレンダー・オブ・ザ・イヤー」を受賞しました。

さらに、2024年3月には、イギリスの権威ある『ウイスキーマガジン』によって「Hall Of Fame（ホール・オブ・フェイム）」、すなわちウイスキー界の「殿堂」入りを果たしました。日本人としては5人目、そして最年少での選出という快挙でした。この殿堂入りは、2007年に秩父蒸溜所を開設し、停滞していた日本のウイスキー業界を牽引してきた功績、失われつつあった伝統的な製造方法の復興と技術革新への取り組み、そしてジャパニーズウイスキー全体のブランド価値向上と品質保持に対する多大な貢献が評価された結果です。

家業の苦境からウイスキー原酒の救済、そして自社蒸溜所の設立と世界的な評価の獲得まで、肥土伊知郎氏の歩みは、情熱と困難に立ち向かう強い意志が、失われかけた日本のウイスキー製造の灯を再び灯し、国際的な地位を確立した物語と言えるでしょう。彼の存在は、現在のジャパニーズウイスキー隆盛において、不可欠なものとなっています。

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