耕治人

耕治人（こう はると）は、1906年8月1日に熊本県八代の地に生を受け、1988年1月6日にその生涯を閉じた日本の作家、詩人です。本名は「たがやす」と読む姓を持ちました。明治学院で英文学を修めた後、詩人・千家元麿に師事し、詩作の道を歩み始めます。その初期の成果として、1930年には『耕治人詩集』を世に送り出しました。

戦前、耕治人は作家・川端康成を深く敬愛し、頼りにしていました。1939年には川端の紹介もあり、『文學界』誌に初めての小説を発表するなど、文学界での活動を開始します。しかし、太平洋戦争末期の1945年3月には、左翼思想の持ち主として逮捕されるという経験もしています。

戦後、彼は主に自身の内面や身辺の出来事を綴る私小説の分野に進みます。長い間、作家としての名声を得ることは難しく、不遇の時代を過ごしました。しかし、1970年に『一条の光』で読売文学賞を受賞したことを皮切りに、1972年には『この世に招かれてきた客』で平林たい子文学賞を受賞するなど、その独自の文学世界が評価されるようになります。晩年の代表作としては『天井から降る哀しい音』（1986年）が挙げられます。

また、亡くなった年に刊行された短編『そうかもしれない』は、認知症を患い夫を認識できなくなった妻が、看護師の問いかけに「そうかもしれない」と答える一場面を捉え、その切実な筆致が読者の感動を呼び、没後にささやかな「耕治人ブーム」を巻き起こしました。

作家としての評価が高まる一方、耕治人の晩年の人生には暗い影を落とす出来事がありました。戦後の1951年、耕治人と妻ヨシ子氏は借金をして中野区野方に土地を借り、小さな平屋を建てて住み始めます。しかし、1958年頃から文芸誌に作品が掲載されなくなり、経済的に困窮しました。この頃、川端康成の妻・秀子氏の弟にあたる松林喜八郎氏が公庫住宅に当選したという話を聞き、耕治人は自身の隣地を借りてはどうかと松林氏に手紙を送ります。川端康成は後々の面倒を懸念して反対しましたが、松林氏はその年末に耕治人宅の隣に家を建てて移り住むことになりました。その後、耕治人はたびたび隣家の松林氏に借金を申し込むようになり、彼の職場にまで押しかけることもあったといわれます。

1960年頃からは不眠症に悩まされ、睡眠薬を常用するようになった耕治人は、この土地問題を深く憂慮するようになり、土地と家を手放して転居することを考えるようになります。1962年には芳賀書店に就職し、5年間ほど編集者として働きますが、土地問題に関する悩みは消えず、睡眠薬の常用から心臓に問題を抱え、病院への通院が必要となりました。1967年1月には睡眠薬による自殺未遂を図り、精神科病院への入院を勧められますが、平林たい子の反対もあり、最終的に脳神経外科に入院します。

この時期、耕治人の心の中で、借りていた土地のうち一部が川端康成一家によって奪われたのではないかという強い疑念、あるいは妄想が芽生えていたとされます。彼は1967年10月、40坪分の土地が自分の権利であることを確認するため、東京簡易裁判所に調停を申し立てます。しかし、翌1968年5月に調停が成立した結果、土地問題自体は存在せず、単に通行に関する問題であったことが確認されました。この調停によって、耕治人が抱いていた「土地を騙し取られた」という認識が、事実に基づかないものであったことが明らかになったのです。

川端康成の死後、1975年には『うずまき』、1977年には『母の霊』といった作品を発表します。これらの作品の中で、耕治人は川端の実名を出すことなく、かつての恩人であった人物から土地を欺かれたと示唆することで、暗に川端一族を非難しました。これに対し、文芸評論家の平野謙は、『東京新聞』での対談で耕治人の主張を擁護し、川端康成を批判しましたが、その際に同席していた藤枝静男の発言であったかのように編集し直したとされるなど、その手法には批判の声も上がりました。この一件については、1983年に川端秀子氏が著書『川端康成とともに』の中で詳細な経緯を明かし、事の真相を綴るとともに、耕治人の主張を通して川端を非難するように仕向けたのは平野謙の策謀であった可能性を示唆しています。

波乱に富んだ私生活とは裏腹に、耕治人の文学は静かで内省的な私小説に深く根ざしています。人間存在の孤独や哀切、家族との関係を独特の筆致で描き続け、晩年に至りようやく正当な評価を得た作家でした。

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