藤村操

華厳滝の悲劇：旧制一高生・藤村操の生涯と死

1903年（明治36年）5月、日光の華厳滝で、一人の若者が命を絶つという衝撃的な事件が起きました。その若者こそ、北海道出身の旧制第一高等学校（一高）の学生、藤村操（ふじむらみさお）です。

藤村は、明治維新後に北海道で事業家として成功した父の元に生まれました。12歳で札幌中学に入学した後、東京に移り、開成中学を経て京北中学に編入。飛び級で学業優秀だったことがうかがえます。しかし、1899年に父を亡くし、母と弟妹と共に東京で暮らすことになります。1902年には、エリートの登竜門として知られる第一高等学校に入学しました。

彼の出自は、華族や士族といった特権階級ではありませんでしたが、祖父は盛岡藩士、父は屯田銀行頭取、弟は後の三菱地所社長、妹の夫は文部大臣を歴任するなど、恵まれた環境にありました。叔父は歴史学者という、知的な家系に育ったことがわかります。

1903年5月21日、藤村は制服姿のまま失踪。翌22日、華厳滝で遺書を残して投身自殺しました。遺書は「巌頭之感（がんとうのかん）」と題され、哲学的な悩みや人生観が綴られていました。

この自殺は、当時大きな社会問題となりました。遺書の内容、そして自殺という行為自体が、多くの学生、マスコミ、知識人に衝撃を与えたのです。特に「立身出世」が美徳とされた当時の社会において、エリート青年による厭世観からの自殺は、大きな波紋を広げました。

藤村の死後、華厳滝は自殺の名所として知られるようになり、後を追う者も続出しました。警察の警戒にもかかわらず、4年間で185名もの人が同所で自殺を図り、そのうち40名が亡くなったと伝えられています。

自殺の原因：哲学的苦悩か、失恋か？

藤村の自殺の原因については、様々な憶測が飛び交いました。遺書に示された哲学的な悩みを原因とする説や、失恋が原因とする説が代表的なものです。

「失恋説」については、複数の女性との関わりが噂されましたが、近年になって新たな証拠が発見されました。それは、藤村が自殺直前に恋人に手渡した手紙と高山樗牛の『滝口入道』です。この発見により、藤村の恋人は馬島千代であったとほぼ確定しました。しかし、藤村の親しい友人たちは、この失恋説を否定する証言を残しています。

遺書「巌頭之感」には、シェイクスピアの『ハムレット』の登場人物ホレーショの哲学に触れられています。「ホレーショの哲学」と題された部分の解釈をめぐっても、様々な議論が展開されました。原文の解釈、翻訳の誤読、そして当時流行していた悲観主義的厭世観などが、この解釈の多様性を生み出した要因と言えるでしょう。

藤村操の死が与えた影響

藤村の死は、夏目漱石をはじめとする多くの関係者に深い影響を与えました。漱石は、藤村の自殺を自身の神経衰弱の一因として語るなど、大きな精神的打撃を受けたようです。漱石の作品『吾輩は猫である』や『草枕』にも、藤村への言及が見られます。

また、一高の同級生や後輩にも大きな衝撃を与え、岩波茂雄など、多くの若者の人生観に影響を与えたと言えるでしょう。メディアもこの事件を大きく取り上げ、社会問題として議論されました。姉崎正治などの知識人による論争も巻き起こるなど、藤村操の死は、当時の社会に大きな影響を与えたのです。

偽書『煩悶記』

藤村操の死後、彼の生存説を唱える偽書『煩悶記』が登場しました。この本は、藤村が自殺を偽装して生き延び、海外を放浪した後、社会主義や無政府主義的な思想に触れて著したとされています。出版直後に発売禁止処分となりましたが、現在では非常に希少な書物として、高い価値で取引されています。

藤村操の自殺は、単なる個人の悲劇ではありませんでした。彼の死は、時代の矛盾や若者たちの苦悩を浮き彫りにし、社会に大きな衝撃と反省を与えた、忘れられない歴史的事件と言えるでしょう。彼の遺書『巌頭之感』は、現代においても、多くの人々に考えさせられるものとなっています。

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