貧酸素水塊

貧酸素水塊（ひんさんそすいかい）

貧酸素水塊とは、水に溶け込んでいる酸素（溶存酸素）の量が極端に少ない、まとまった海水のかたまり、あるいはそのような状態になっている水域そのものを指します。この水域は「デッドゾーン」（死の海域）とも呼ばれることがあります。特に東京湾や伊勢湾、瀬戸内海のような閉鎖的な内湾で発生しやすい現象です。貧酸素水塊が広がったり、海底から表面に上昇したりすると、そこに住む魚介類や底生生物が酸欠などで大量に死んでしまい、漁業や養殖業に壊滅的な被害をもたらすことがあります。

生物への影響と貧酸素状態の定義

多くの魚介類は、水中の溶存酸素が1リットルあたり3ミリグラム未満になると、生きていくことが難しくなります。酸素がさらに少なくなるにつれて、魚は水面に口を近づけて盛んに呼吸しようとする「鼻上げ」と呼ばれる行動をとったり、その場から逃げようとしたり、痙攣を起こしたりといった異常な動きを見せるようになります。

貧酸素状態の定義は、機関によって若干異なります。例えば、気象庁では、生物の活動に影響が生じる水中の酸素量を70マイクロモル/キログラム以下と定めています。また、島根県では、溶存酸素が3ミリグラム/リットル以下を貧酸素状態としています。

貧酸素水塊の形成メカニズム

貧酸素水塊は、いくつかの要因が組み合わさることで発生します。特に、海底が急な窪みになっていたり、湾の入り口が狭い閉鎖的な内湾では、一般的に水の流れが滞りやすくなっています。

夏場には、太陽の熱で海面近くの水温が高くなり、温度の低い底層との間に水温の急激な変化する層（水温躍層、または成層）ができます。これにより、密度の違う表層の水と底層の水が混ざりにくくなり（鉛直混合の抑制）、底層への酸素供給が妨げられます。また、河川水と海水が混ざり合う場所では、塩分濃度の違いによって層ができて水の上下混合が妨げられることもあり、これを塩分躍層と呼びます。

こうした水の流れが滞った底の方では、増殖した植物プランクトンの死骸などが沈んできて堆積します。これらの有機物がバクテリア（好気性細菌）によって分解される際に、大量の溶存酸素が消費されます。結果として、海底近くの水は極めて溶存酸素が少ない状態になり、貧酸素水塊が形成されるのです。

さらに酸素が全く無くなった状態（無酸素状態）では、酸素を使わずに活動できる嫌気性細菌（硫酸塩還元細菌など）が活発になります。これらの細菌は、有機物に含まれる硫黄成分や海水中の硫酸イオンを分解し、有毒な硫化水素や硫化物イオンを大量に作り出します。これにより海水は硫化水素特有の「卵の腐ったような」臭いを帯びるようになります。硫化水素は水面に気泡となって上がってくることもあり、その場合は海上でも不快な臭いが感じられます。また、生成された硫化物は海底の泥（底質）と反応し、硫化鉄などになって堆積し、底質が淡青色を呈することもあります。

完全に酸素が消費され尽くした水塊は、無酸素水塊（anoxic waters）と呼ばれ、貧酸素水塊と区別されることもあります。

海面現象としての青潮・苦潮

海底付近で形成された貧酸素水塊が、強い風や潮の流れの変化によって、海底から海面近くにわき上がる（湧昇）現象が起こることがあります。この現象が発生すると、貧酸素・高濃度の硫化水素を含む海水が表層に拡散し、そこに生息する魚介類などに大きな被害を与えます。

特に、海面に現れた貧酸素水塊に含まれる硫化物が、空気中の酸素などに触れて酸化されると、乳青色の微粒子（硫黄成分と考えられています）を作り出すため、海面が白濁して見えることがあります。この現象は「青潮」（主に東京湾で使われます）と呼ばれます。また、硫化水素の強い臭気から「苦潮」（主に三河湾で使われます）と呼ばれることもあります。ただし、これらの呼称は海水の物理的な性状に基づいているため、特定の種類の赤潮を指す場合にも使われることがあります。

海面の呈色原因からも分かるように、海面に見える青潮や苦潮は、あくまで底層や中層に存在する貧酸素水塊が表面に現れた現象であり、貧酸素水塊そのものとは必ずしも完全に一致するわけではありません。

被害の状況と要因

貧酸素水塊が広がった水域では、生物が生存できないほど溶存酸素が少ないため、酸素を使って呼吸する魚介類や底生生物の多くが窒息死してしまいます。また、貧酸素水塊に含まれる硫化物（特に硫化水素）は強い毒性を持っており、これも生物の大量死の主要な原因となります。

貧酸素水塊の発生には、海底の地形や潮の流れといった物理的な要因が大きく影響します。さらに、生活排水や工場排水などから流れ込む窒素やリンなどの栄養分が増えすぎること（富栄養化）が、植物プランクトンの異常な増殖を引き起こします。特に水の流れが滞りやすい閉鎖的な湾や窪地では、増えすぎたプランクトンが海底に沈み、その分解が進むことで底層の酸素が消費され、貧酸素化が加速されます。

ただし、自然に形成された海底の窪地などで常時貧酸素水塊が発生している場所が、生態系に良い影響を与えている事例もあります。例えば、浜名湖北部の一部の窪地では貧酸素水塊が常に存在しており、底質からリンが溶け出すことで、表層で植物プランクトンが増殖しやすくなっています。このプランクトンが、浅場に生息するアサリなどの貝類に豊富な餌を提供し、漁獲を支えている側面があります。また、貧酸素条件下では発芽しない種類の有毒渦鞭毛藻（貝毒の原因となるプランクトン）のシスト（休眠細胞）が存在するため、貧酸素水塊が消失することで、これらの有毒プランクトンが増殖する契機につながる懸念も指摘されています。

対策

貧酸素水塊の対策としては、以下のような人為的な方法が試みられています。

曝気・エアレーション・マイクロバブル: 水中に空気を送り込み、酸素濃度を直接高める方法です。
エアカーテン: 海底に設置したパイプから空気を出すことで上昇流を作り、貧酸素水塊の拡散や表面への湧昇を防ぐ方法です。
浚渫（しゅんせつ）: 海底に堆積したヘドロ（有機物を多く含む泥）を取り除くことで、分解による酸素消費を減らす方法です。ただし、浚渫によって新たな窪地ができ、かえって貧酸素水塊が発生しやすくなる逆効果を生む場合もあります。
底質の被覆（覆砂など）: ヘドロの上に砂などを敷くことで、ヘドロからの有害物質の溶出や酸素消費を抑制する方法です。
* 植生浄化: アマモなどの水生植物を植えることで、水質を改善し、酸素供給を促す方法です。

これらの対策は、原因や場所の特性に応じて組み合わせて実施されます。

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