賢馬ハンス

賢馬ハンス：知性と観察の狭間

賢馬ハンスは、19世紀末から20世紀初頭のドイツで、まるで人間の言葉を理解し、計算ができるかのように振る舞い、人々を驚かせたオルロフ・トロッター種の馬です。しかし、その驚くべき能力の裏には、観客や飼い主が無意識に行う微細な動きを敏感に察知し、それを手がかりに答えを導き出すという、驚くべき観察能力がありました。

知性と思惑

1891年頃から、飼い主であるヴィルヘルム・フォン・オーステンが出す簡単な計算問題を、蹄で地面を叩く回数で答えるというパフォーマンスで、ハンスは一躍有名になりました。1904年には、カール・シュトゥンプらの調査団によって調査が行われましたが、当初はトリックの存在は否定されました。しかし、その後アルバート・モールによって、ハンスが飼い主の動きを注意深く観察していることが指摘され、1907年には心理学者オスカー・フングストによって、ハンスがどのようにして答えを得ていたのかが解明されました。

問題の核心は、出題者が問題を認識しているかどうか、そしてハンスがその出題者の動きを見ることができるかどうかにありました。出題者が問題を認識していない場合や、出題後にすぐに立ち去るなど、ハンスが出題者の動きを観察できない状況では、ハンスは正解を出すことができなかったのです。つまり、ハンスは計算能力を持っていたのではなく、周囲の状況、特に人間の微細な動きを驚くほど敏感に察知する能力に長けていたのです。

クレバー・ハンス効果

今日、ハンスの例は「クレバー・ハンス効果」として知られています。これは、観察者が無意識のうちに被験体（この場合は馬）に手がかりを与えてしまい、被験体がそれを読み取って期待された行動を示す現象を指します。この発見は、観察者期待効果として、その後の動物認知学に大きな影響を与えました。

ハンスを取り巻く人々

当時のヨーロッパは、ダーウィンの著作が発表された直後であり、動物の認知能力に対する関心が非常に高まっていました。ハンスの飼い主であったヴィルヘルム・フォン・オーステンは、数学教師であり、馬の調教師でもありましたが、骨相学や神秘主義といった、現代では否定されている分野にも傾倒していました。オーステンは、ハンスが加減乗除、分数、時間、日付、音階、さらにはドイツ語の読み書きまで理解できると主張していました。

調査と解明

ハンスに対する関心の高まりを受け、ドイツ教育委員会はオーステンの主張を検証するための調査委員会を設立しました。哲学者であり心理学者でもあったカール・シュトゥンプが率いるこの委員会には、獣医、サーカス団長、騎兵隊長、教師、動物園長など、各界の専門家が集められました。1904年、委員会は「ハンスの能力に誤りはない」という結論を下しました。しかし、フングストはさらなる検証を行い、以下の点を明らかにしました。

ハンスは、質問者が見えない状態では正答できない。
質問者は飼い主である必要はないが、答えを知っている必要があり、かつハンスに見える位置にいる必要がある。

フングストは、質問者が答えを知っている場合、ハンスの正答率が89%に達するのに対し、知らない場合はわずか6%であることを突き止めました。そして、質問者がハンスに期待する回数に蹄の音が近づくにつれて、質問者の姿勢や表情がこわばり、最後の一叩きの瞬間に緊張が解放されることを発見しました。ハンスは、この微細な変化を合図として利用していたのです。

動物行動学への示唆

馬の社会では、群れの個体の姿勢や重心移動が重要な意味を持ちます。ハンスがオーステンの体勢の変化を容易に読み取ることができたのは、そのためでしょう。オーステン自身は、そのような合図を送っていることに全く気づいていませんでしたが、ハンスの驚くべき観察能力が、この現象を可能にしたのです。フングストは、人間が馬の立場になって質問者の足のタップを読み取る実験を行い、被験者の90%が正解できることを示しました。

ハンスのその後

ハンスの知性が公式に否定された後も、オーステンはハンスを連れてドイツ中を巡り、大観衆を魅了し続けました。オーステンの死後、ハンスは複数の所有者の手に渡り、第一次世界大戦に投入された可能性も指摘されていますが、1916年以降の記録は残っていません。

クレバー・ハンス効果の現代的意義

クレバー・ハンス効果は、現代においても重要な意味を持っています。例えば、警察犬による臭気選別において、犬が臭気を感知したかどうかではなく、指導手の顔色をうかがって判定してしまう可能性があります。これは、警察の予断を反映した誤った判定につながり、冤罪の原因となる可能性があります。実際に、クレバー・ハンス効果の可能性を否定できないとして、臭気鑑定の信用性が否定され、無罪判決が下された事例も存在します。

クレバー・ハンス効果は、動物行動学の研究において、観察者のバイアスを排除することの重要性を示唆しています。また、人間と動物のコミュニケーションにおける微妙なニュアンスを理解する上で、貴重な教訓を与えてくれます。

参考文献

『ウマはなぜ「計算」できたのか―「りこうなハンス効果」の発見』オスカル・プフングスト著 秦和子訳 現代人文社 2007年

関連項目

ワショー (チンパンジー)
ココ (ゴリラ)
人間と動物のコミュニケーション

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