車いすマラソン

車いすマラソンは、障害者スポーツの一つとして知られる、陸上競技の長距離種目です。アスリートは、特別に設計された軽量な3輪の競技用車いすに乗り込み、自身の腕の力のみで、フルマラソンと同じ42.195kmの道のりを駆け抜けます。公道や公園内のコースなど、様々な場所で開催され、その迫力とスピードは観る者を惹きつけます。

この競技は、1984年のニューヨーク・ストークマンデビルパラリンピックから夏季パラリンピックの正式種目となり、以降、世界のトップアスリートたちが熱戦を繰り広げています。なお、日本ではフルマラソンだけでなく、ハーフマラソンや10km、5kmといったロードレースも「車いすマラソン」と称されることがありますが、この記事では主に42.195kmのレースに焦点を当てて解説します。

驚異的なスピード

車いすマラソンで特筆すべきはそのスピードです。例えば、1999年にハインツ・フライ選手が樹立した男子の世界記録は1時間20分14秒で、これは平均時速約31.7kmに達します。これは、2018年にエリウド・キプチョゲ選手が出した健常者マラソンの世界記録（2時間01分39秒、平均時速約20.8km）を大きく上回る速度です。トップクラスの選手は、1分間に約500m、2分で約1kmを進む計算になり、約80分で40km地点に到達する能力を持っています。その速度は、公道を走る原動機付き自転車を追い抜くほどであり、非常にダイナミックなレース展開となります。

最高速度も驚くべき値に達します。平坦な直線コースでは、加速が乗った後には時速36kmを超えることもあります。もしフィニッシュ前の直線が長いコースであれば、ラストスパートでは時速37～38kmに到達すると考えられています。さらに下り坂では、時速50kmを超えるのは日常的で、過去には時速68kmを記録した選手もいます。しかし、この高速域はフレームの剛性向上により可能になった一方で、ブレーキの制動力を超え、制御不能に陥る危険性も伴います。また、強いブレーキは前輪ロックを招き、路上の障害物に乗り上げた際に転倒するリスクを高めるため、安全面での注意が不可欠です。

多様な戦略

レース運びにおいては、一般的なマラソンと同様に様々な戦略が存在しますが、加えて自転車のロードレースに似た駆け引きが見られます。特に重要なのが、空気抵抗を減らすための「ドラフティング」です。選手たちは先行する選手の直後につき、風よけとして体力を温存します。数台から十数台が集団で縦一列に並び、先頭を交代しながら進む「ローテーション」も見られます。ただし、障害のクラスが異なる選手間でのドラフティングは規則で禁じられています。

具体的な戦略としては、以下のタイプがあります。

先行逃げ切り型: レース序盤からリードを奪い、そのままフィニッシュまで逃げ切る戦法です。かつて絶頂期にあったハインツ・フライ選手のように、他の選手が付いていけないほどの圧倒的な力を持つ場合に有効でした。
ロングスパート型: 競技場のトラックに入る前に勝負を決める戦略です。トラック勝負は瞬発力や集団の中での位置取りが重要になるため、これを避け、確実に勝利するために集団から抜け出すことを狙います。腹筋や背筋の力が弱く、トラック勝負が不利になるクラスの選手が選択することが多いです。
トラック勝負型: 競技場に入るまで体力を温存し、最後の直線でのスプリントでライバルを抜き去る戦法です。高いスプリント能力が要求されますが、集団の大きさによっては思い通りの進路が取れないこともあり、運も勝敗を左右します。

コースと車いす操作の妙技

陸上競技のトラックは、ランナーが走りやすいようにカーブが完全な半円状になっています。車いすマラソンの競技用車いすには、このカーブに合わせて前輪の角度を固定できる装置が備わっています。これにより、コーナーの入り口で最適な角度にハンドルを固定すれば、後は後輪を漕ぐことに集中できます。車いすレースにおいては、この前輪角度を固定するタイミングと、直線に出た時に素早く元に戻すタイミングが非常に重要になります。

このタイミングのずれが、思わぬアクシデントにつながることもあります。例えば、2008年の北京パラリンピック女子5000mでは、ラスト1周直前で選手が接触・転倒する事故が発生しました。これは、直線に出たにも関わらず、前輪の固定を解除するのが遅れた選手が内側に切り込んできたことが原因でした。この事故に巻き込まれた土田和歌子選手は、メダルを期待されていたマラソンへの出場を断念せざるを得ませんでした。

歴史と開催形式

車いすマラソンの開催形態は、大きく分けて二つあります。

大きなマラソン大会の「車いすの部」: 一般の部のスタートよりも数分早く、同じコースを使用して行われます。交通規制の延長を最小限に抑えつつ、健常者と混走しないように工夫されています。アメリカのボストンマラソンにそのルーツがあり、欧米を中心に多く見られる形式です。近年では、日本の東京マラソンや大阪マラソンでも車いすの部が設けられています。
車いすランナーだけの単独大会: 車いす使用者のみが参加する独立した大会です。これにより、関門時間が比較的長く設定できるため、より幅広い障害程度の選手が参加しやすいという利点があります。日本では、ボストンマラソンなどの影響を受けつつも、当初は車いす使用者が長距離を安全に完走できるかという実証的な意味合いから単独開催が始まりました。1981年に始まった大分国際車いすマラソン大会は、車いす使用者でもフルマラソンを完走可能であることを広く認知させる上で画期的な大会でした。これを契機に、全国各地で単独大会が開催されるようになります。

当初は障害者の社会参加という福祉的な側面が強かった車いすマラソンですが、パラリンピックの正式種目化や各地での大会開催を通じて、次第に競技性が高まりました。1990年代以降は海外のレースを転戦するプロ選手も現れ、2010年代頃からはメディアでも競技スポーツとして報道される機会が増えています。

競技規則とクラス分け

競技規則は、基本的な部分は日本陸上競技連盟のルールに準拠しつつ、障害者スポーツ特有の規定（競技用車いすの規格、障害程度によるクラス分けなど）は、World Para Athleticsや日本パラ陸上競技連盟の規則に基づいて運用されます。大会や選手の記録が公認されるためには、これらの団体の認定を受ける必要があります。

選手は障害の程度に応じてクラス分けされます。例えばT51、T52、T53/54といったクラスがあり、「T」はトラック競技、「5」は脊髄損傷など車いすを使用するクラスを示し、末尾の数字が障害の重さを表します（数字が小さいほど重度）。例えばT54は腹筋が機能する選手、T53は腹筋が機能しない選手、T51は腕の力も弱い選手などが該当します。

記録とその特殊性

黎明期には健常者の記録に及びませんでしたが、1980年にはカート・ブリンクマン選手がボストンマラソンで健常者の記録を初めて上回るタイムを記録しました。現在の男子世界記録はハインツ・フライ選手が1999年に大分国際で記録した1時間20分14秒ですが、車いすマラソンには特別な事情から「二つの世界記録」が存在します。

国際パラリンピック委員会（IPC）が公認する記録と、ボストンマラソンで樹立された記録です。ボストンマラソンのコースは、スタート地点からフィニッシュ地点にかけて約140mもの高低差があるほぼ一直線の下り基調であり、国際陸上競技連盟が定める「スタートとフィニッシュの直線距離が全長の半分以下で、高低差が42m以内」という公認コースの基準を満たしません。そのため、ボストンマラソンでの記録はIPCの公認世界記録とはなりませんが、その歴史と権威から「ボストンマラソンの世界記録」として独立して扱われています。これは、平坦なコースで行われるレースと、下り坂が特徴的なレースという性質の違いを反映したものです。ただし、ボストンでの記録や勝利が軽んじられるわけではなく、その偉業は高く評価され、年間ランキングにも掲載されます。

現在のIPC公認男子世界記録はハインツ・フライ選手の1時間20分14秒（1999年・大分国際）、ボストンマラソン男子世界記録はジョシュア・キャシディ選手の1時間18分25秒（2012年・ボストン）となっています。

進化する競技用車いす

車いすマラソンに使用される競技用車いすは、オーダーメイドで作られる高性能なマシンです。炭素繊維などの軽量かつ高剛性な素材が多用され、その形状はもはや一般的な車いすとは大きく異なります。選手は低い姿勢で乗り込み、後輪は26～27インチ、前輪は20インチ程度のものが一般的です。全長は1.7～1.85m、ホイールベースは約1.2mで、ホイールベースが長いほど直進安定性が増し、高速走行に適しています。

競技用車いすは、競技の発展と共に著しい進化を遂げてきました。

1970年代: 当初は重い生活用車いすが使われていました。
1980年代: ハンドリムの小径化や前輪の大径化が進み、高速走行の維持や直進安定性がわずかに向上しました。しかし、まだ前輪は自在に動くキャスタータイプが主流で、安定性に課題がありました。
1988年頃: ホイールベースの長さに関するルールが撤廃され、設計の自由度が増します。
1989年頃: 自転車のようなフロントフォークが採用され、前輪が1輪になり、直進安定性が飛躍的に向上しました。これにより、コーナーリング時の操作性が高まり、前輪ブレーキの取り付けも可能になりました。
1990年頃: 軽量なアルミ製の1本フレームが採用され、ホイールベースがさらに長くなりました。これにより、より大きな力を効率的に地面に伝えることができるようになり、選手のパワーを引き出せるようになりました。車体の軽量化も進み、7～9kg台のマシンも登場します。
1993年頃: 後輪にディスクホイール（板状の車輪）が導入されました。これにより、スポーク車輪で発生していたパワーロスがほぼなくなり、推進力が大幅に向上しました。炭素繊維強化プラスチック製のディスクホイールが主流となります。
2005年頃: フレーム全体を炭素繊維で作るフルカーボンモノコックボディの車いすも開発され、さらなる軽量化と剛性強化が進みました。
* 2010年代以降: チタンやマグネシウムなどの新素材も試され、フレーム剛性や空気抵抗の低減、デザイン性など、多岐にわたる進化が続いています。

これらの技術進化は、選手のパフォーマンス向上に不可欠であり、より速く、より安全に走ることを可能にしています。

「ハの字」後輪の秘密

競技用車いすの後輪は、外側に向かって大きく傾いた「ハの字」型になっていることが特徴です。これは車のホイールアライメントでいう「ネガティブキャンバー」に似ていますが、旋回性向上が主目的ではありません。

その理由は、選手の腰幅に合わせて車輪の上部幅を狭くし、転倒を防ぐために地面との接地点である下部幅を広くした結果、自然と「ハの字」の形状になったためです。この形状はオーダーメイドで車いすを作る際に、選手の体格に合わせて最適な角度に調整されます。

この「ハの字」にはいくつかのメリットがあります。選手は腰のすぐ脇にあるハンドリムを上から叩くように漕ぎますが、車輪が傾いていることで腕を振り下ろす際に力が入りやすく、またハンドリムとの摩擦も得やすくなります。一方で、ホイールの内側が低くなるため段差などで損傷しやすかったり、タイヤが外れやすかったりといったデメリットも存在します。

ただし、車輪が斜めに回転することで直進を妨げる力が発生したり、旋回しやすくなるという考え方は誤解です。旋回性の向上は、むしろ車いすバスケットボールやテニスなど、方向転換が頻繁に必要な競技用車いすで見られる目的であり、これらの競技用車いすも「ハの字」後輪は、小さな力で素早く方向転換するためのてこの原理として機能しています。

その他の情報

「車いす」という表記が大会名などに多く使われているのは、かつて「椅」の文字が常用漢字ではなかったためです。2010年に常用漢字に加えられた後も、この表記が慣例として使われています。

車いすマラソンのメディア中継は、近年少しずつ増えています。特に大分国際車いすマラソン大会では、早くからラジオやインターネットでの生中継が行われており、2016年には地上波・BSでの生中継も実現しました。東京マラソンなどでも、その注目度の高まりとともに、中継中に選手たちの姿が映し出されるようになっています。

多くの人々の努力と進化によって、車いすマラソンは見る者を感動させる魅力的な競技として発展を続けています。

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