遺伝子の水平伝播

遺伝子の水平伝播（いでんしのすいへいでんぱ、Horizontal Gene Transfer：HGT、またはLateral Gene Transfer：LGT）とは、一般的な遺伝である「垂直伝播」（親から子への遺伝情報の継承）とは異なり、同時代に生存する異なる個体間や他生物種間で遺伝情報の一部が受け渡される現象を指します。この現象は、生物の進化において予想外の変化をもたらす要因として、近年ますます注目されています。

この遺伝子の伝わり方は、「遺伝子の水平転移（いでんしのすいへいてんい）」とも呼ばれます。

概要

通常、生物の遺伝情報は、細胞分裂などを通じて親細胞から娘細胞へと受け継がれます。しかし、特に細菌やアーキアといった原核生物においては、他の細胞から何らかの方法で遺伝子を取り込むことが頻繁に起こります。例えば、ある細菌から別の細菌へ、バクテリオファージ（細菌に感染するウイルス）を介して遺伝子が運ばれたり、あるいは細菌同士が直接接触して遺伝情報の一部を交換したりすることで遺伝子の移動が生じます。腸管出血性大腸菌が赤痢菌から毒素を産生する遺伝子を獲得したとされる事例は、この水平伝播の一例と考えられています。

このような水平方向の遺伝子移動は、特定の遺伝子だけが種を超えて伝わるため、その遺伝子だけを追跡して作成した系統樹が、生物種全体の系統樹と一致しないという興味深い矛盾を生じさせることがあります。

高等生物における水平伝播

遺伝子の水平伝播は、単細胞の原核生物に限られた現象ではありません。植物や動物などの高等生物においても、ウイルスの影響やその他のメカニズムによって遺伝子が取り込まれる事例が見つかっています。例えば、レトロウイルスやその他のDNA・RNAウイルスが自身の遺伝子を宿主のゲノムに組み込むことは広く知られており、ヒトを含む多くの生物のゲノム中に、過去に感染したウイルスの痕跡としてその遺伝子配列が見られます。実際に、約4000万年前にヒトの祖先へRNAウイルスの遺伝子が取り込まれた可能性を示唆する研究成果が、2011年に学術誌『Nature』に掲載されました（大阪大学の朝長啓造准教授らの研究）。これらの発見は、ウイルスの関与が生物の進化に影響を与えた可能性を示唆しています。

ただし、高等生物において水平伝播で取り込まれた遺伝子が、その生物の機能に明確な影響を与えていることが確認されている例は、まだ多くありません。推測される事例はいくつか存在します。

多細胞生物の場合、体細胞に取り込まれた遺伝子は、それが生殖細胞に反映されない限り、子孫には引き継がれません。

特定の遺伝因子であるトランスポゾン（転移性因子）が、複数の生物種間を移動できることも知られています。また、ミトコンドリアや葉緑体といった細胞小器官が持つ遺伝子が、宿主細胞の核ゲノムへと移行する現象も、一種の水平伝播と見なすことができます。植物では、ラフレシアのような寄生植物に関連したと思われる水平伝播の例がいくつか報告されています。動物においては、ホヤが持つセルロース生成能力や、一部のシロアリが持つセルラーゼ（セルロース分解酵素）生成能力が、外部からの遺伝子獲得を示唆する事例として研究されています。

マダニの事例

遺伝子の水平伝播の興味深い具体例として、マダニの研究があります。血を吸う際に宿主の血管を拡張させる物質を唾液に含むマダニのうち、アフリカに生息するある種のオルニソドロス属マダニの唾液腺遺伝子を詳細に調べた研究（三重大学医学系研究科の岩永史朗准教授ら）では、このマダニが脊椎動物に特有の血圧降下ホルモンである「アドレノメデュリン」の遺伝子を持っていることが判明しました。その遺伝子の進化的な由来を解析した結果、このマダニが2億3400万年前から9400万年前の間に存在した爬虫類か恐竜から、この遺伝子を獲得した可能性が非常に高いと推定されています。これは、動物間での長距離・大規模な遺伝子の移動を示唆する発見として注目を集めました。

遺伝子の水平伝播は、生物のゲノム構造を変化させ、進化の過程に多様な影響を与える強力なメカニズムであり、今後も研究の進展が期待されています。

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