金正男暗殺事件

2017年 2月13日、マレーシアのクアラルンプール国際空港で、北朝鮮の故金正日総書記の長男である金正男（キム・ジョンナム）氏が暗殺されました。この事件は、国際的な注目を集め、多くの謎と憶測を呼ぶこととなりました。

金正男氏は2017年2月6日にマレーシアに入国し、観光地であるランカウイ島を訪れた後、2月13日にマカオ行きの航空便に搭乗するため、クアラルンプール国際空港のLCC専用ターミナル(KLIA2)に現れました。午前9時頃、自動チェックイン機の前に立っていた金正男氏は、突然2人の女性に襲撃され、顔面に猛毒の神経剤「VX」を塗布されました。

マレーシア警察によれば、金正男氏は襲撃後、空港のスタッフに対し「誰かに背後から掴まれ、顔に液体をかけられた」と訴えました。また、一人の女性が液体を含んだ布を顔に被せてきたとも証言しています。その後、金正男氏は自ら空港内の診療所に向かい治療を受けましたが、大量の汗をかき、顔の痛みを訴え、間もなく痙攣を起こして意識を失いました。口から血や泡を吹くなど症状が悪化し、最終的に搬送先の病院で死亡が確認されました。金正男氏は、事件当時「キム・チョル」という偽名を使用していたため、マレーシア当局が身元を特定するのに時間を要しました。

捜査と逮捕

事件後、マレーシア警察は迅速に捜査を開始しました。実行犯として、ベトナム国籍のドアン・ティ・フォン（A）とインドネシア国籍のシティ・アイシャ（B）の2名の女性が逮捕されました。監視カメラの映像から、彼女たちが実行犯であると特定されました。逮捕された女性たちは、北朝鮮の工作員に「いたずら番組の撮影」と騙されたと主張し、毒物を扱っているとは知らなかったと供述しています。また、4人の北朝鮮人男性が事件に関与した疑いがあるとして国際指名手配されました。この4人は事件当日にマレーシアを出国し、ジャカルタ、ドバイ、ウラジオストクを経由して平壌に帰還したとされています。さらに、マレーシア国内に滞在していた3人の北朝鮮人男性（高麗航空の従業員、北朝鮮大使館の二等書記官を含む）も捜査対象となりましたが、後に嫌疑が晴れ、平壌への帰国を許されました。

マレーシア警察は、金正男氏の殺害が計画的な犯行であり、2人の女性は暗殺のために訓練を受けていたと断定しました。また、女性たちがクアラルンプールの各所でリハーサルを繰り返していた事実も明らかになりました。

一方、北朝鮮政府は事件への関与を否定し、マレーシア当局が韓国と共謀して「証拠を捏造」していると非難しました。また、死亡した男性が金正男氏であることを認めず、死因は心臓発作である可能性が高いと主張しました。

検死

クアラルンプール病院で行われた検死の結果、金正男氏の肺、脳、肝臓、脾臓が毒物によるダメージを受けていたことが判明しました。また、尿からは毒物の痕跡が検出され、血中コリンエステラーゼ濃度の低下は神経剤への曝露を示唆していました。そして、金正男氏の顔面部から猛毒の神経剤「VX」が検出されたことが発表されました。

VXはバイナリー兵器として用いられることがあり、金正男氏は2種類の化学物質を塗布された可能性があります。この方法であれば、攻撃者自身が毒物で死亡することを防ぐことができ、また、化学物質を別々に持ち込むことで、当局による発見を困難にすることが可能です。しかし、実行犯のBは襲撃後に嘔吐するなど体調を崩したと証言しています。検死の結果、金正男氏の遺体は長男の金漢率氏から提供されたDNAサンプルにより、正式に金正男氏のものであると確認されました。

裁判

2017年10月、AとBは殺人罪で起訴されました。両被告は無罪を主張し、「テレビ番組のいたずら撮影」であると騙されていたと証言しました。しかし、マレーシア政府の化学者は、AとBの衣服や爪からVXの痕跡が検出されたと証言しました。また、検死報告書からは金正男氏の遺体から心臓発作を示す兆候は確認されず、死因がVXによるものであるとされました。裁判では、北朝鮮人のスカウトマンが2人の女性を勧誘し、クアラルンプールでの「いたずら」に巻き込んだ経緯も明らかになりました。2018年、高等裁判所は証拠は不十分ながらも事件が政治的暗殺である可能性を排除できないとし、両被告の「テレビ番組のためのいたずら」という主張は不自然であるとしました。

殺人罪の起訴取り下げ

2019年3月、Bの起訴が取り下げられ、釈放されました。これはインドネシア政府からの要請に応じたものでした。一方、ベトナム政府もAへの同様の措置を要請しましたが、マレーシア検察当局はこれを却下しました。その後、Aの罪状は「危険な武器や手段によって故意に傷害を負わせた罪」に変更され、Aは罪を認め、禁錮刑を受けました。刑期は逮捕時から計算され、減刑も受けたため、2019年5月に釈放されました。

元被告Bの発言録

元被告Bの発言録によると、彼女は「ジェームス」と名乗る自称日本人カメラマンにスカウトされ、いたずら番組の出演を依頼されたと主張しています。撮影訓練やリハーサルを重ねるうちに、出演料が増え、プレゼントも受け取ったといいます。事件当日、Bはチャンと落ち合い、指示された通りに金正男氏の顔にオイルを塗りましたが、それが危険なものであるとは認識していなかったと供述しています。

事件の影響

この事件は、マレーシアにおける死刑制度にも影響を与えました。マレーシアでは、殺人罪で有罪となれば死刑が適用されますが、この事件を機に、死刑廃止の動きが進みました。2018年7月には死刑の執行が停止され、同年10月には死刑廃止の方向へ進むことが決定しました。

参考文献

『なぜ金正男は暗殺されたのか　自滅に向かう独裁国家』西脇真一／平野光芳、毎日新聞出版、2017年10月
『追跡金正男暗殺』乗京真知／朝日新聞取材班、岩波書店、2020年1月

映画

『わたしは金正男を殺してない』ライアン・ホワイト監督 2021年アメリカ映画

外部リンク

金正男暗殺を追う（朝日新聞）
* 『追跡金正男暗殺』(岩波書店)

もう一度検索

金正男暗殺事件