陽明文庫蔵近衛基熙筆源氏物語

陽明文庫蔵近衛基熙筆源氏物語：4年に及ぶ筆写と校合の軌跡

陽明文庫に所蔵されている近衛基熙筆源氏物語は、近衛基熙（このえ もとひろ）公が全54帖を一人で書き写した、極めて貴重な源氏物語写本です。元禄13年（1700年）9月27日から宝永元年（1704年）5月25日にかけて書写が続けられ、同日から校合が始まり、正徳3年（1713年）5月10日まで精緻な校合作業が繰り返されました。

書写の過程と複数の祖本

基熙公は、書写にあたり、複数の祖本を参考にしています。その中には、三条西実隆（さんじょうにし さねたか）が享禄・大永年間（1521～1528年）に書写した三条西家本、後陽成天皇（ごようぜいてんのう）が慶長年間（1596～1615年）に書写した本、後西天皇（ごさいてんのう）による「新院御本」、そして平松時量（ひらまつ ときかず）が寛文年間（1661～1673年）に書写した本が含まれています。

特に基熙公は、平松時量筆本を「青表紙本」の「字違ズノ本」として高く評価し、重要な祖本として位置付けていました。これは、三条西家本から数えて3回目の転写本であることから「三転本」とも呼ばれています。平松時量本は、後水尾天皇（ごみずのおてんのう）や後西天皇に仕え、書籍の収集・整理・複本作成を担っていた人物によるものでした。このことから、基熙公の写本が、天皇家や公家社会における源氏物語伝承の重みを示すものと言えるでしょう。

書写順序と巻末奥書

基熙公は、一般的な巻順とは異なる順序で書写を進めています。まず、分量の多い巻から書き始め、元禄16年（1703年）正月には初音巻、その後桐壷巻に取り組むなど、独自のペースで書写を進めています。これは、同年1月14日に関白を辞任し隠居生活に入ったことと関係があると考えられています。

各巻の巻末には、書写奥書が残されています。これらには、書写した日付、祖本に関する情報、そして基熙公自身の感想などが記され、書写の歴史を詳細に物語っています。これらの奥書は、基熙公が自ら書き加えたものだけでなく、祖本にあったものを転写したものでもあり、写本の伝承をたどる上で重要な手がかりとなります。例えば、夢浮橋巻の奥書には、三条西実隆、後陽成天皇、そして基熙公自身による書き込みがあり、多様な書写・校合の歴史を物語っています。

「源氏物語書写校合日数目録」

写本には、「源氏物語書写校合日数目録」と題された文書が付属しており、各巻の書写開始日・終了日、校合開始日・終了日が詳細に記録されています。この目録は、基熙公の作業工程を正確に知る上で不可欠な資料です。目録によると、基熙公は、まず若菜上巻から書き始め、その後も、概ね分量の多い巻から順に書き進めていった様子がわかります。また、書写順序は必ずしも一般的な巻順に従っていないことも確認できます。

継続的な校合

書写完了後も、基熙公は長年にわたって校合を繰り返しています。『基煕公記』には、書写過程における校合の記録や、完成後も継続して行われた校合の記録が多数残されています。これらは、基熙公が、この写本に対して並々ならぬ情熱を注いでいたことを示しています。正徳3年（1713年）5月10日には、最終的な校合が完了したと記されています。

基熙公のこだわりと源氏物語研究への貢献

近衛基熙筆源氏物語は、単なる写本にとどまりません。4年もの歳月をかけて書き写され、徹底的な校合が繰り返されたこの写本は、基熙公の源氏物語への深い理解と情熱、そして卓越した書写技術を如実に示しています。さらに、付属文書や奥書、そして基熙公の日記『基煕公記』と合わせ考えることで、室町時代から江戸時代にかけての源氏物語の伝播と受容の歴史を解き明かす重要な資料となっています。この写本は、源氏物語研究において、今後も欠かせない貴重な資料として、その価値を高め続けるでしょう。

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