環世界

環世界：それぞれの生き物に広がる独自の宇宙

ヤーコプ・フォン・ユクスキュルという生物学者が提唱した「環世界（Umwelt）」という概念をご存知でしょうか？これは、私たち人間を含むすべての動物が、それぞれに固有の知覚世界を持って生きているという考え方です。この環世界は、動物が外界を認識し、行動する上での基盤となる、いわばそれぞれの生き物にとっての「宇宙」と言えるでしょう。

私たちの知覚は、五感を通して得られる情報によって構成されていますが、環世界の概念では、この知覚が種によって大きく異なることを強調しています。例えば、人間は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感を用いて世界を認識しますが、他の動物では、これらの感覚の鋭敏さや種類が大きく異なっています。さらに、それぞれの動物が持つ感覚器官や神経系の構造によって、同じ環境であっても、全く異なる世界が構築されているのです。

ユクスキュルは、普遍的な時間や空間とは別に、各動物種に特有の時間と空間が存在すると考えました。つまり、私たち人間にとっての「1秒」や「1メートル」は、他の動物にとって同じ長さや広がりを持つとは限らないのです。それぞれの動物が持つ環世界において、時間と空間は、その動物の行動や生活様式に合わせて独自に構成されていると言えるでしょう。

動物の行動は、その環世界における知覚と、それに対する反応の産物です。それぞれの動物は、自分自身の環世界の中で意味のある行動をとっており、その意味は、人間が理解できるものではないかもしれません。

マダニ：匂いと温度を感じる世界

環世界の概念を理解するために、マダニというダニの一種を例に考えてみましょう。マダニは、視覚や聴覚を持たない代わりに、優れた嗅覚、触覚、温度感覚を持っています。森や茂みに潜むマダニにとっての世界は、私たち人間が想像するような視覚的なものではありません。

マダニは、哺乳動物が発する酪酸という物質の匂いを頼りに、獲物の接近を感知します。そして、体温を感じ取ることで、獲物の方向を正確に把握し、体表に着地します。その後、触覚を使って、毛の少ない皮膚を探し当て、吸血します。マダニにとっての環世界は、匂い、温度、そして触覚によって構成されている、いわば「匂いと温度と触覚の世界」なのです。

驚くべきことに、マダニは長期間絶食することが可能です。ある研究では、18年間も絶食しながら生存していたマダニの記録もあるそうです。この事実は、マダニの環世界が、私たち人間の想像を超えるほど、効率的な生存戦略に基づいて構成されていることを示しています。

環世界と生命計画

ユクスキュルは、動物主体と客体との意味を持った相互関係を「生命計画」と呼びました。それぞれの動物は、その環世界の中で、固有の生命計画に基づいて生きているのです。この生命計画を理解することは、生物多様性や生態系の理解に繋がる重要な鍵となるでしょう。

環世界の概念は、生物学だけでなく、哲学や心理学、そして芸術など、様々な分野に影響を与えています。私たち人間が、他の動物の環世界を理解することは、簡単ではありませんが、その試みは、自然界への理解を深める上で非常に重要な意味を持つと言えるでしょう。

参考文献

ユクスキュル、クリサート（Georg Kriszat） 著、日高敏隆・羽田節子 訳『生物から見た世界』岩波書店〈岩波文庫〉、2005年（原著1934年）。
ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『生命の劇場』（講談社学術文庫）（入江重吉・寺井俊正訳、講談社、2012年）
* ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『動物の環境と内的世界』（前野佳彦訳、みすず書房、2012年）

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