りゅう座イプシロン星

りゅう座ε星：多様な顔を持つ二重星

りゅう座を構成する数ある恒星の中で、ε（イプシロン）星は、特に興味深い性質を持つ二重星として知られています。地球からは約148光年離れた位置にあり、その姿は古くから様々な文化の中で認識されてきました。

歴史と名称の変遷

この星の名称には、歴史的な変遷が見られます。アメリカの博物学者アレンは、りゅう座のε、δ、π、ρの4つの星が「牡山羊」を意味するアラビア語「アルタイス」と呼ばれたと記していますが、本来この語が個別の星の名に使われた例はアラビアにはありません。むしろ、りゅう座ε星自身には、アラビア語で「蛇」を意味する「アル・ティンニーン」の名が記されていることがあります。

一般的にはバイエル符号である「りゅう座ε星」として言及されることが多いですが、「ティル（Tyl）」という固有名も存在します。この名は天文学者ベチュヴァーシュによって広められたとされますが、その正確な由来は現代でも不明です。一方、中国の天文学では、この星は「天廚（てんちゅう）」と呼ばれる星官の一部を成しています。天廚は食料庫や台所を司る官職を象徴する星の並びであり、りゅう座ε星はδ星、σ星、ρ星、64番星、π星と共にこの星官を形成し、中でも「天廚三」すなわち天廚の3番目の星とされています。このように、りゅう座ε星は、東西の文化において異なる形で認識され、様々な名で呼ばれてきました。

観測条件

りゅう座ε星は、地球上の特定の地域で観測しやすい星です。その赤緯がおよそ+70度と非常に高いため、主に北半球に住む人々にとって馴染み深い存在です。南半球では、南緯20度より北の地域でかろうじて地平線近くに見える程度です。しかし、北緯20度より北の地域では、この星は「周極星」となります。これは、夜空で一晩中、そして一年中、地平線の下に沈むことなく見え続けるという性質です。視等級は4等台（約3.9等）と、明るい星が多いわけではありませんが、都市部のような強い光害の影響がない場所であれば、肉眼で十分に捉えることができます。りゅう座が真夜中に南中する北半球の夏は観測条件が良い時期と言えますが、北緯の高い地域では周極星であるため、季節を問わず夜空にその姿を見つけることができます。

二重星としての姿

りゅう座ε星が単一の星ではなく、少なくとも2つの恒星からなる二重星であることは、比較的古くから知られていました。19世紀前半、ロシアの天文学者であるシュトルーベが最初にこれを記録したとされています。この二重星系は、明るい主星「りゅう座ε星A」と、それよりもやや暗い伴星「りゅう座ε星B」から構成されます。ε星Aの視等級は約3.9等、ε星Bは約6.8等です。地球から見たときの両星の見かけ上の離角は3.1秒角と、比較的小さいため、望遠鏡を使わなければ分解して見ることは難しいでしょう。これらの2つの星は、たまたま同じ方向に見えているだけの見かけの二重星ではなく、物理的に結びついた「連星」である可能性が高いと考えられています。もし連星であるならば、両者の実際の空間的な距離は、約140AU（天文単位、地球と太陽の距離の140倍）程度と推定されます。

星の物理的特徴

連星系を構成する2つの星は、それぞれ異なる性質を持っています。主星であるりゅう座ε星Aは、スペクトル型がG8 IIIに分類される「黄色巨星」です。太陽と同じG型のスペクトルを持ちますが、進化の段階が進んでおり、その半径は太陽よりもはるかに膨張しています。質量は太陽の約2倍程度と見積もられていますが、巨星としては比較的質量が小さい部類に入ります。年齢については、太陽よりも若いと考えられています。一方、伴星のりゅう座ε星Bのスペクトル型はF5 IIIとされており、こちらはF型の巨星、あるいは準巨星と考えられます。この星系の地球からの正確な距離は、ヨーロッパ宇宙機関のヒッパルコス衛星によって測定された年周視差のデータに基づき計算されています。2007年に公表された改正データによれば、年周視差は22.04ミリ秒角であり、これを用いて距離を逆算すると、およそ148光年という値が得られます。この距離は、りゅう座ε星が私たちの太陽系から比較的近い恒星系の一つであることを示しています。

りゅう座ε星は、古今東西の天文学で注目されてきた二重星であり、その名称の多様さ、北半球での特別な観測条件、そして二つの異なるタイプの恒星からなる連星系としての特徴など、多くの興味深い側面を持っています。約148光年彼方にあるこの星は、夜空を眺める人々に、広大な宇宙の多様性と歴史を感じさせてくれる存在です。

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