アガトーン (ギリシア神話)

アガトーン（古代ギリシア語表記Ἀγάθων、長母音を省略するとアガトンとも呼ばれます）は、古代ギリシア神話の世界に登場する人物であり、強大な都市国家トロイアを統治した老王プリアモスの、数多くいたとされる息子たちの中の一人です。プリアモス王には伝説によれば50人もの息子がいたと伝えられており、アガトーンもその大家族の一員でした。彼の名は、特に紀元前8世紀頃に活躍したとされる大詩人ホメロスによって編まれた、トロイア戦争を主題とする不朽の叙事詩『イリアス』の中に現れます。ホメロスはこの中でアガトーンを「武勇に優れた（ἀγαθὸς ἐν αἰχμῇ）」と形容しており、これは彼が槍や武具を手に戦う上で、特に優れた技量や勇敢さを持っていたことを示唆しています。トロイアの王子の一人として、彼は当然のように祖国の防衛線に立ち、迫りくるギリシア軍の脅威に対抗していたと考えられます。

しかし、トロイア戦争は長期にわたり、その戦況はトロイアにとって厳しいものとなっていきました。トロイア軍の総大将であり、最も頼りにされていた兄ヘクトールをはじめ、多くの優れた戦士である息子たちが戦死したことは、プリアモス王にとって計り知れない悲しみと同時に、王国の存続に対する深い焦燥感をもたらしました。王は、まだ生き残っている息子たちの戦いぶりや働きに満足できず、ある時、激しい言葉で彼らを叱責しました。この痛烈な言葉を受けた息子たちの中に、アガトーンの名前も挙げられています。ホメロスの詩によれば、この時アガトーンと共に父王の怒りを買った兄弟たちには、未来を予知する力を持つヘレノス、スパルタ王メネラオスの妻ヘレンを奪ったことが戦争の原因となった美男のパリス、戦の知恵を持つパムモーン、民衆の指導者ポリーテース、そしてアンティポノス、デーイポボス、ヒッポトオス、ディーオスといった面々がいました。王の叱責は、彼らが戦死した英雄たち、特にヘクトールの偉業に比べて見劣りするという、父としての失望と王としての苛立ちの現れだったと言えるでしょう。アガトーンを含む彼らは、それぞれの能力に応じてトロイアのために尽力していましたが、王国を破滅から救うほどの決定的な働きを示すことは困難でした。

アガトーン自身の最期については、複数の古代文献が存在する中で、必ずしも統一された記述が見られるわけではありません。しかし、有力な伝承の一つとして語られているのが、ギリシア軍の中でもアキレウスに次ぐ剛勇を誇ったテラモーンの息子、大アイアースによって討たれたという説です。大アイアースは巨躯と怪力の持ち主であり、トロイアの戦場では数々の武功を立てました。彼はヘクトールとも一騎討ちを行った経験があり、その強さは敵味方双方に広く知られていました。アガトーンがこの強大な英雄とどのように戦い、命を落としたのか、その詳細な場面は残念ながら古代の記述からは明らかではありません。しかし、彼がトロイアの王子として最前線で戦っていたとすれば、ギリシア側の著名な戦士と遭遇し、壮絶な死を迎えた可能性は十分に考えられます。大アイアースに討たれたという伝承は、アガトーンが決して臆病な人物ではなく、強敵に対しても果敢に立ち向かうだけの武勇を持っていたことを示唆しているとも言えます。

アガトーンに関するこれらの情報は、現代では主にいくつかの重要な古代文献を通じて知ることができます。中心となるのはやはりホメロスの『イリアス』であり、彼への言及はこの壮大な叙事詩の中にあります。また、古代ギリシア神話の系譜や物語をまとめたアポロドーロスの『ギリシア神話』、ローマ時代に書かれた神話集であるヒュギーヌスの『ギリシャ神話集』、そしてトロイア戦争の出来事を年代記風に記したとされるディクテュス・クレーテンシスとダーレス・プリュギウスの物語なども、アガトーンに関する断片的な情報や関連する出来事を伝える可能性があります。これらの文献は、それぞれ異なる時代背景や視点から神話や歴史的出来事を記述しており、時に内容に差異が見られることもありますが、アガトーンという人物が古代ギリシア・ローマ世界においてプリアモスの息子として認識されていたこと、そしてトロイア戦争という物語の一部を担っていたことを現代に伝えています。彼の生涯の全貌は不明瞭ながらも、「武勇に優れた」と称えられた彼の名は、トロイア滅亡の悲劇の中で確かに存在しました。

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